生薬の話
木曽の山林とキハダ
木曽に芽吹きの時が訪れています。木曽谷の山の連なりが、茶色から萌黄色に、そして濃い緑へと変わりゆく様は、大変美しく、毎日見ても見飽きません。
先日「「木曽式伐木運材図会(きそしきばつぼくうんざいずえ)」の解説」という本をいただきました。木曽式伐木運材図会は、江戸時代後期に木曽地方や飛騨地方で行われていた伐木・運材の様子を描いた二巻の絵巻物です。以前本ブログでもご紹介いたしました。
木曽式伐木運材図会は、林野庁中部森林管理局に所蔵されています。広報誌「中部の森林」に令和2年から3年にかけて12回に亘り連載されていた図会の解説を一つの本にまとめられたとのことです。
木曽は総面積の93%を森林が占めています。古くから林業が盛んに行われていました。奥山で木を伐り出し、谷へ下ろし、木曽川の流れを利用して下流へ運材する一つ一つの作業工程の絵図とその解説を読むと、昔の山や川で働く人々の活き活きとした働きぶり、大変な労苦、そして自然の中で経験から導き出された知恵や工夫と、技術の積み重ねが改めて伝わってくるような気がしました。
上巻は「伐木業一覧圖」とも呼ばれ、伐木前に調査を行い、奥山で大木を切り出し、造材し、急峻な山から谷まで運材する様子が描かれています。また下巻は「材木流送圖」と呼び、川の支流や本流に達した木材を岩などにかからないように注意しながら流し、桴(いかだ)にして港まで運材する様子が描かれています。上巻は20点、下巻は21点の絵が収載されているそうです。
斧(ヨキ)による伐木や、山の斜面、木そのものの重量、沢の水、川の流れなど自然をそのまま活用した運材の一つ一つの技術も大変興味深いですが、印象に残りましたのは、上巻の「祭山神圖(やまのかみをまつるず)」です。昔は山仕事に取り掛かる前に、山の神を祀り、作業の安全を祈っていたそうです。絵には杣(そま:木を伐る人)が2人、常緑の大木にしめ縄をはり、御神酒をお供えし、頭を下げている様が描かれています。祭神は山津見神(やまのかみ)と山伎大明神(やまき)と書かれています。毎月「山の神」の日を定め、その日は仕事を休み、酒が支給され、山の神を祀ったそうです。木祖村では、現在でも、毎年11月10日と3月10日に「山の神様」を行っているとお年寄りから聞いたことがあります。この日は山の祠に行き、米をつぶしたものの中に小豆を入れてお供えしているそうです。昔はたきぎを取りに山に入ったため、「山の神様」を皆行っていたが、今は行う人はほとんどいない、とのことでした。山の恵みに感謝し、安全を願う習わしは、杣人の活躍していた時代から現代に伝わるものと思います。豊かな森林に恵まれた木曽の地ならではの人々の営みのように感じました。
さて、百草、百草丸の主成分のオウバクは、キハダの周皮を除いた樹皮です。周皮をむき、黄色く鮮明な内側の樹皮を樹幹からはがす作業は、木が水を吸い上げる6月から7月の梅雨の時期が、最も適しています。雨の日は、山での大掛かりな作業は危険を伴うため休止となります。昔の人は、山に入る時にキハダの場所を覚えておき、手の空いてしまう梅雨時の休みの日に、キハダを伐り、皮をむいて売り、生計の足しにしていたと聞きます。まさに、木曽式伐木運材図会に描かれている杣人たちが、そのような作業をしていたのではないか、そして百草、百草丸が今に伝わる所以の一つではないかと感慨深いものがあります。
なお、木曽式伐木運材図会は、昭和初期に、中部森林管理局の前身である帝室林野局木曽支局庁舎(現在の木曽町の御料館。2017年度に林業遺産に登録)の金庫に保管されていたそうです。私の父方、母方の祖父ともに、営林局に勤務しており林業に携わっていました。更に、父方の祖父は、昭和初期に帝室林野局木曽支局庁舎で勤務していました。この図会を見たことがあったかもしれないと思うと、更に感慨深く感じます。木曽の森林、その恵みの中で育まれた暮らしや文化、そのお陰で今に伝わる百草、百草丸を大切にしていかなくてはならないと思います。
出典:林野庁中部森林管理局 「木曽式伐木運材図会」の解説