薬食同次元
日本の歴史を築いたヒノキ
江戸時代の日本に西洋医学を伝え、多くの門人を育て、日本の医学の発展に大きな足跡を残したシーボルトは、医学者であると同時に、植物学や園芸に造詣の深い博物学者でもありました。1823(文政6年)に長崎のオランダ商館医師として着任し、私塾「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開いて診療しつつ医術を伝授し、さらに、類まれなる才能と活躍により、日本の動植物、地理、歴史、言語などを研究し、1829年に離日したのですが、日本滞在中の研究成果として、ツッカリーニとの共著で「日本植物誌」がまとめられ、日本の植物を初めてヨーロッパに紹介したのです。この「日本植物誌」には当時シーボルトが目にした日本の植物の彩色図版(植物画)151点とシーボルトの覚書が収められています。
以下に、この「日本植物誌」の中にある木曽五木の一つとして名高い「ヒノキ」の記載(植物画は法令により掲載できなので覚書のみ)を紹介させていただきます。
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又、このシーボルトの覚書にある光景が、江戸時代の木曽山において執り行われた木材(ヒノキ)の伐木・運材方式を描いた「木曽式伐木運材図会」(林野弘済会長野支部発行)に収められていますので、合わせてご紹介いたします。
シーボルトの覚書
ヒノキは森にとって誇りとなる木
「ヒノキ」の覚書でシーボルトは「ヒノキは森にとって誇りとなる木であり、日本人はヒノキを太陽の女神(天照大神)に捧げるにふさわしい木と考えている。それは日光に照らし出されたヒノキが実に堂々たる外観を呈するだけでなく、材も白く、きめ細やかで緻密であり、絹のような光沢さえももつ。女神を祭る神社がヒノキでつくられ、文化の伝播にともない、全国津々浦々に建つ神社の周りには必ずヒノキが植えられている。高い材価から山間の重要な商品となっていて、川に沿って大量に集積されたヒノキの梁材や板材を見た」と記述しています。
この「川に沿って大量に集積されたヒノキの梁材や板材を見た」とのシーボルトの覚書から、私がまだ20代だった頃に、亡父(文平)が「木曽の木材の貴重な本だ。大事にしろ。」と、「木曽式伐木運材図会」を手渡してくれたことを思い出しました。「木曽式伐木運材図会」は、急峻な木曽谷での材木の伐採方法と川下し方法を描いたもので、伐木・運材作業の場面やそこでの人物「杣(そま):山地での伐木・造林専業夫」と「日用(ひよう):運材専業夫」の動きをも写した江戸時代に描かれた図本です。林野弘済会長野支部がこの江戸時代の絵図をまとめ、昭和50年に発行したものです。
しっかり読みもせず、本棚にしまい込んだままになっていた「木曽式伐木運材図会」を開いてみると、そこには、まぎれもなく、シーボルトが目にしたのと同じと思われる「川に沿って大量に集積されたヒノキの梁材や板材」の絵図がありました。シーボルトの覚書の通りの絵図を見ることができたのです。
遠くヨーロッパで今から約200年も前に出版された「日本植物誌」を通して、ようやく亡父の想いの一端を知ることができたと感じています。
木曽の奥山で伐採され、筏に組まれて木曽川を下り、木場に運ばれたヒノキは、木曽谷に住む人々の暮らしを支え、日本各地の神社等の建造物の用材に使われ、日本の歴史を築いてきたのです。