薬食同次元
味噌のこと
今年は雪の多い冬です。毎日雪が降り続き、山々は白く静かで、木曽谷は氷雪に閉ざされているような日々でしたが、このところ少しずつ陽ざしにやわらかさを感じられるようになりました。間もなく福寿草が咲き、ふきのとうが顔を出す季節が訪れると思うと楽しみです。
さて、信州は味噌づくりの盛んな土地です。県内各地に味噌蔵があり、家庭でも味噌が作られています。「医者に金を払うよりも、みそ屋に払え」という江戸時代のことわざがあるほど、古くから健康食として親しまれてきました。日本を代表する発酵食品の一つであり、たんぱく質、脂質、炭水化物、食物繊維、ビタミン、ミネラルなどが豊富で栄養価が高いです。2013年にユネスコ無形文化遺産に登録された「和食(日本人の伝統的な食文化)」の重要な構成要素の一つでもあります。
■味噌の歴史
では、味噌はいつどのように生まれ、今に伝わるのでしょうか?
味噌の起源には諸説あります。中国の古代の発酵食品「醤」、「豉」が日本に伝来し、これが味噌の起源となったとの説があります。醤とは肉や魚などに麹、塩と酒を混ぜて漬け込み熟成させる食物で、豉とは豆に麹、塩などを加えて熟成した食物です。また、縄文人の住居跡から、どんぐりで作った味噌のようなものが見つかったことから、日本にも古くから味噌の原型が存在していたとも考えられています。
味噌に関わる記述が初めて見られるのは、飛鳥時代後半の701年に文武天皇により編纂された大宝律令とされています。大宝律令の中に、宮廷の料理を司る大膳職の別院である醤院で、「醤」、「未醤」、「豉」、「酢」、「酒」、「塩」などを用いていたとの記録があります。この中の「未醤」は、「醤」になる前の熟成途中の状態であり、これが「未醤(みしょう)→みしょ→みそ)」に変化していったとされています。「味噌」という文字が初めて文書に記載されたのは、平安時代の901年に発行された日本三代実録(清和天皇・陽成天皇・光孝天皇3代を記した歴史書)と言われています。
飛鳥時代、平安時代には、味噌は貴重品で、位の高い人にしか手に入らないものでした。薬としても用いられていたようです。しかし、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武士が台頭し、兵糧に用いることのできる固形の味噌が、栄養源として重宝されるようになりました。この頃から、味噌汁が作られるようになり、鎌倉武士の食事の基本である「一汁一菜(主食、汁物、おかず、香の物)」が確立されたとされています。この食習慣は、現代まで続けられています。栄養バランスに優れた味噌が長年に亘り人々の暮らしの中で大切にされてきたことが分かります。
江戸時代の本草学者・食物研究家の丹岳(人見必大)が記した庶民の食の解説書「本朝食鑑」に、味噌について下記のような記述があります。
【わが国では古くから、上下四民(士農工商)ともに朝夕に用い、食の助けにしている。】
【一日もなくてはならないものである。】
【腹中をくつろげ、血を活かし、百薬の毒を排出する。胃に入って、消化を助け、元気を運び、血の巡りを良くする。痛みを鎮めて、よく食欲をひきだしてくれる。】
江戸時代は人口が50万人を超えた時代でもあります。全国各地で味噌が作られ流通し、多くの味噌料理が食べられるようになり、暮らしに定着していたことが分かります。
■味噌の種類
では、味噌にはどのような種類があるでしょうか?
日本は気候、風土、文化などが各地で多様であることから、様々な味噌があります。原料で分類すると、主に米味噌、麦味噌、豆味噌の3種となります。
米味噌:大豆、米、塩
麦味噌:大豆、麦、塩
豆味噌:大豆、塩
米味噌が全国的に最も多く、日本の味噌の8割は米味噌であると言われています。信州みそ、仙台みそ、関西白みそは皆、米味噌です。
麦味噌は九州、四国、中国地方の瀬戸内海を挟んだ地域で主に作られます。九州麦みそ、瀬戸内麦みそなどが有名です。
また、豆味噌は愛知、三重、岐阜などの中部地方で作られています。八丁みそ、名古屋みそ、三州みそは豆味噌です。またこれらを混合した調合味噌もあります。
味は、食塩の量や麹歩合(大豆に対する麹の比率)の違いにより甘味噌、甘口味噌から辛口味噌まであります。また、色も白、淡色から赤まで様々です。大豆などの原料の違い、大豆を煮るか、蒸すか、柑子の量、熟成の温度や期間、かき混ぜたか否かなど、様々な条件で決まります。
■信州みそとは
信州みそは、大豆と米麹でつくる代表的な「米味噌」で、光沢のある山吹色(淡色)が良質とされる、やや辛口の味噌です。
鎌倉時代に、信濃国筑摩郡出身の心地覚心(しんちかくしん)が、宋での修行中に味噌の製法を習い、帰国後に自身が創建した、現長野県佐久市の安養寺で、仏教の布教とともに味噌づくりを広めたことが始まりとされています。
戦国時代には武田信玄が、海のない信州での塩の備蓄のため、また兵糧として味噌の生産を奨励したことから、信州の地で味噌づくりが盛んに行われるようになりました。大正12年の関東大震災の際、被災地への救援物資として信州みそが送られたことなどをきっかけとし、全国に広まり、定着しました。
現在では、信州みその出荷量は年間20万トンを超えています。工業統計調査 2020年確報品目別統計表によると、全国シェア50%以上(全国1位)となっています。
味噌づくりは一年中行うことができますが、木曽では寒さの少し和らぐ今の時期から畑が忙しくなる前の春先にかけて、味噌の仕込みを行う人が多いようです。三寒四温の天候によって発酵がゆっくり進み、その後の温度・湿度の上昇によって熟成し、秋にはおいしい味噌が出来上がると思います。自然の恵みを活用する古くからの味噌づくりの文化を大切にしていきたいと思います。
最後に余談ですが、弊社本社のある木祖村は木曽川の源流に位置しています。その最上流の本流を「味噌川」と呼びます。しかしこの名前は信州で味噌づくりが盛んだから名付けられたものではありません。木曽川は古くは曽川と呼ばれていました。未だ曽川になる前の「未曽川」が、「味噌川」に転じたとされています。味噌が未醤から転じたとされるように、事の始まり、物事の要を示す大事な意味が、みそという言葉にはあるように感じます。
うどとサバ缶詰の味噌汁 - 信州ではサバ缶を味噌汁にすることが多く、春にはうどの入ったものが食べられます
出典:
「信州みそ巡り」長野県味噌工業協同組合連合会
「味噌のこと」マルコメ株式会社
「みその基礎知識」神州一味噌株式会社
「工業統計調査 2020年確報品目別統計表」、他