薬食同次元
年末年始の思い出
新年明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話にありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
年末年始の思い出、私の子供の頃のことを語ってみます。
大晦日はどこの家もそうでしたが、そして今もそうですが、大掃除、お節料理づくり、松飾りなど、新しい年を迎えるための準備に大忙しでした。父が神棚や仏壇を清め、玄関、神棚、蔵の前にしめ縄を飾り、松を飾り、床の間の掛け軸を七福神に掛け替えて鏡餅をお供えし、母はおせち料理をつくり、私はお掃除を担当し、弟たちは父の手伝いをしていたように思います。あたりが暗くなると、神棚にお供えするお膳(お神酒、炭、米、ぶり、水)と仏壇にお供えするお茶と山盛りのご飯を親碗(漆の椀)に盛り、お供えし、父母と私たち兄弟3人は揃って神様と仏様にお参りをして、厳かな空気が流れる座敷の一人一人のお膳を前にして正座し「お年取り」をしました。信州ではどこの家でもそうだと思うのですが、「お年取り」といって、おせち料理をお正月にいただくのではなく、大晦日にいただくのです。年少の者から数え年(お正月からの年齢)を云い、息災であったことに感謝し、来年も息災でありますように願って、子供はお屠蘇をいただく真似をしてからおせち料理をいただくのです。この時のご飯のお変わりは、3杯、5杯、7杯とされており、少しづつよそってもらい、大抵3杯か5杯お代わりをしました。毎年30日には北谷(生鮮食料品店)のおじさんが大きなぶりをかついでやってきて、台所でおろしてくれたのですが、そのぶりのあら煮を31日の昼に食べさせられるのも毎年のことで、本当のお年取りのお膳にのっているぶりには食傷気味となってしまい箸をつけることができませんでした。
お年取りが終ると、父は早々に仮眠をとり始めました。深夜から未明まで薮原神社で執り行われるお籠り(おこもり)に行くためです。紋付羽織袴を着て、カイロを懐に入れて、11時ごろに出掛けていきました。お籠りは無病息災、家内安全、商売繁盛を願って、神仏にお祈りを捧げる祈願の行事で、薮原神社では一晩中護摩が焚かれていたようです。父が出掛けてしばらくすると除夜の鐘が鳴り始め、その鐘の音を数えながら、いつも眠ってしまったように思います。
元旦の朝、やはり普段とは異なる、また大晦日とも異なる神聖な空気が流れる座敷で、お茶と主菓子をいただきながら、新年の挨拶をして、ぶり、大根、人参、ほうれん草、鳴門巻き、たけのこの入ったお醤油味のお雑煮をいただきました。根菜は全て縦長に切るのが良いとされていました。そしてそうこうしていると叔父(父の弟)家族が新年の挨拶に来て、全員で正座して「明けましておめでとうございます」と挨拶を交わした後、二人のいとこたちと話をしたり、坊主めくりやトランプや花札をして遊びました。
午後には、父と二人、汽車に乗って塩尻の祖父母(母の親)の家にお年賀の挨拶に行きました。父は長女の私だけを連れて、小学校の6年間、毎年同じように祖父母の家に行きました。父は家から歩いて10分の藪原駅に着くと、「ここで待っていなさい」と言って、駅長室に行き、汽車の出発時間になると戻ってきました。汽車に乗ると、今度は、「ここに座っていなさい」と言って、藪原駅、奈良井駅、平沢駅、贄川駅、洗馬駅を過ぎた頃に戻ってきました。自家用車がない時代でしたから交通手段は汽車で、4~5両編成の長い列車だったように思います。知り合いがたくさん乗車していて、一人一人に新年の挨拶や話をしていたのだと思います。次の塩尻駅で降りて歩いて約10分のところに祖父母の家がありました。祖父母の家には中学生と高校生の叔父(母の弟)がいて、私のために一緒に歌を歌ってくれたり、ゲームをしてくれたり、犬のメリーの散歩をしたりして遊んでくれました。祖父はとてもハイカラな人で、私の木曽の家では見たことがないようなチーズやナッツをおつまみにして父と一緒に洋酒を飲んでいました。また、塩尻の家は私の暮らす木曽の街道沿いの民家特有の吹き抜け天井の家とは異なり温かい雰囲気のコンパクトな文化住宅で、こんな家で暮らせたらいいなといつも思っていました。
お正月二日、この日は朝の8時位からお年始のお客様がひっきりなしに来られて、私はお膳を下げたり、食器洗いをしていましたが、昼頃に伯母たちが年始に来てくれて、年末年始で家に帰っていたばば(普段は住み込みで母を助けてくれる)も戻ってきてくれて、ばばの顔を見てほっとしてお正月気分に戻ることができました。
父は本家の大黒柱の役割を担い、母は本家の嫁としての役割を担い、懸命に立ち働いていました。意気揚々として元気に満ち溢れていました。
感謝しかありません。
よい日々を歩んでいきたいものと思っています。
皆様におかれましてもよいお年でありますように心からお祈りいたしております。