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生薬の話

百草とともに歩んできた日野製薬

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 日野製薬は、信州木曽の地で「百草(ひゃくそう)」、「百草丸(ひゃくそうがん)」、「普導丸(ふどうがん)」、「百草錠(ひゃくそうじょう)」をはじめとする民間伝承薬を製造販売しております。「百草」についてご紹介いたします。

「百草(ひゃくそう)」とは?

「百草」は、日野製薬の原点と言える薬です。ミカン科の落葉高木キハダの周皮を除いた樹皮(生薬名:オウバク)を乾燥、裁断し、水で煮出し、煮詰め、板状に固めた乾燥エキス剤で、添加剤を一切含まない単味(オウバクエキスのみ)の生薬製剤です。天然物であるオウバク特有の強烈な苦みを有しています。

下痢、消化不良による下痢、食あたり、吐きくだし、水あたり、くだり腹、軟便に効果があり、一時的に下痢を止めるだけなく、下痢を伴う胃腸の諸症状に働きかけ、便通を整え、胃腸全体の機能を正常にする胃腸薬です。

健胃、整腸、抗炎症作用及び主成分のベルベリンの抗菌作用により、昔は「万病に効く腹薬」と称され胃腸薬としてだけでなく風邪、赤痢、皮膚病、切り傷、張り薬、目薬などに用いられ、家庭の常備薬として庶民の暮らしに溶け込み、親から子へ、子から孫へと伝えられてきた信州木曽の民間伝承薬です。

木曽御嶽山(きそおんたけさん)と「百草」

木曽御嶽山は長野県と岐阜県との県境にまたがる標高3,067メートルの独立峰です。702年(大宝2年)の文武天皇の時代に、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神をご一体として御嶽山に祀り、産業発展、病気平癒等を祈願したのが信仰の山として崇められるようになった始まりとされています。しかし、御嶽登拝は百日精進潔斎という厳しい規制があり、誰もが登拝できる山ではありませんでした。江戸時代の天明年間(1781年~1789年)に現れた覚明、普寛の両行者の尽力により、登山道が開かれ、一般の人々に信仰の山として開放され、全国各地に御嶽講の発生をみることになりました。御嶽講の行者は、病気治癒の願いを神仏に届ける儀礼や薬の指示や施薬を行い、「御神薬(ごしんやく)」と称された薬の製法を村人に伝授し、それが「百草」であるとされています。「百草」は木曽御嶽山信仰と密接に結びついた薬なのです。

「百草」の起源の諸説

普寛行者が寛政4年(1792年)王滝口登山道を開山した際に協力してくれたお礼にと村人に「百草」の製法を授けてくれた、あるいは、普寛霊神の言いつけであると寿光行者(普寛行者の高弟、金剛院順明の三代目弟子)が嘉永二年(1849年)六月に村人に製法を教えてくれたのが始まりと言われています。当初はキハダ(オウバク)の他に御嶽山麓で採れる数種類の薬草(御嶽山の霊草)を加えて煎じつめたものでしたが、次第にキハダ(俗称:きわだ)の皮のみを煎じて作るようになったとのことのようです。記録はありませんが、大正年間にはオウバクのみを成分とした「百草」になっていたようです。

また、地元の言い伝えによりますと、寛政2年(1790年)普寛行者が奈良の大峯山での修行を終え木曽へ入った際、まず目にとまったのがキハダであり、キハダを用いた陀羅尼助の製法を知っていたので、御嶽山麓の村人に製法を教えたのが始まりともいわれています。あるいは、全国各地で修行していた修験者の間の情報網により陀羅尼助が大峯から御嶽に伝わり、それが「百草」になったのではないかとの説もあります。

古く木曽地域には良質なキハダが生息していたことから、地元の農家では農耕の合間にキハダを採取し、大切な農耕馬を含めて自家用に作るだけでなく、副業として「百草」を作り、販売するようになったということのようでもあります。

「御嶽山の御神薬」「万病に効く腹薬」「お百草さん」と称され、御嶽登拝や中山道を旅する人々の道中薬として、また土産品として愛用され全国に広まったのです。

「百草」を正式に製造するようになったのは明治10年(1877年)官許を得てからです。明治末期には40業者を数え、その後原料難から大正15年20戸、昭和6年16戸、昭和17年2月18日に長野県下の売薬製造業は「長野県売薬統制株式会社」に統合され、戦後、統制が解かれ、数社が製造に当たるようになりました。

「百草」とともに歩んできた日野製薬

昭和22年に第10代、11代当主の日野文平が日野製薬合名会社を設立し、昭和42年(1967年)日野製薬株式会社に社名を変更、昭和52年(1977年)にGMP適合工場を新築し、百草、百草丸、普導丸、百草錠等を製造販売し、直営店を運営し、今日に至っていますが、日野製薬と「百草」とのつながりは、江戸時代の寛政年間(1789年~1801年)にさかのぼります。

中山道木曽11宿の藪原宿で旅籠を営む日野屋文平が、「百草」を提供したのが始まりで、明治後期に旅籠を廃業し、本格的に「百草」の販売を始めたのです。

第10代日野文平が、明治後期から昭和20年頃にかけて王滝村の一心堂で、「百草」を販売しており、当社が保存する明治、大正、昭和の日野屋の登拝帳にその記録が残っています。旅籠を営んでいた日野屋の時代から受け継がれてきた登拝帳へのご記帳は、現在も直営の王滝店、里宮店において続けられています。

一心堂には、普寛行者の最後の弟子である一心行者(1771年~1820年)が祀られており、日野家では「一心様のおかげで今日があります」と、崇敬しています。

長野県と岐阜県の境の御嶽山の中腹に位置する日和田地区には良質のキハダが産出し、広い道ができる前(戦前)には、歩いて地蔵峠を越えてオウバクエキスの塊を買いに行ったのだそうです。厳冬の中を歩いてオウバクエキス塊を買いに行ったのは、オウバクエキス塊を作る作業は農家の副業として農閑期に行われたこと、寒い時期に作られたオウバクエキスは腐敗や発酵やカビの発生が少なく、品質面で優れているからであったと思います。

「百草」という名の由来

竹の皮に包んだ板状の誠に苦い黒褐色の「百草(ひゃくそう)」の名の由来は「百の病に効果がある」「百種類の薬草を合わせたものほどの効果がある」ことから木曽の人が明治になってから名付けたようですが、中国の「神農が百種類の草をなめてその薬効をためした」という故事に由来するもの、あるいは、奈良時代に野山で薬草を採る「薬狩」という行事があり、薬草を採ってその優劣を競う「百草を闘わす」という言葉にちなむとものだとする説もあるようです。

「百草」の来歴

「百草」の来歴をたどりますと、木曽地域では、昭和30年代頃までは「百草(ひゃくそう)」を「だらすけ」とも称していました。奈良の大峰山で修行した修験者が木曽御嶽山でも修行し、御嶽山麓の村人に「陀羅尼助(俗称:だらすけ)」をもたらした可能性も考えられます。

さらにさかのぼりますと、今から1400年ほど前の飛鳥時代(634年)現在の奈良県御所市に生まれ大峰山の開祖と言われた役行者(えんのぎょうじゃ)が山中のキハダの木の皮をむいて煎じ薬とし疫病に苦しむ人々を救ったことが起源であると伝えられています。役行者の頃の薬名はわからないとのことですが「だらすけ」の名は後世になってつけられた名とのことです。

そしてさらにさかのぼりますと、縄文遺跡からキハダが発掘されており、日本最古の生薬と言われています。

中国においては、後漢から三国時代(今から2000年ほど前)、中国最古の薬物書と言われる『新農本草経(しんのうほんぞうきょう)』に中品(上品という説もある)として収載されています。

以上のように、歴史的な来歴をたどっただけでも、キハダ(オウバク)は絶えることなく人々の健康維持のために用いられ、天然の薬物としての長い間の実績により効能が裏付けられています。

「陀羅尼助(だらにすけ)」「煉熊(ねりくま)」「百草(ひゃくそう)」と呼び名は異なりますが、いずれもオウバクの皮を煎じたエキス剤で、日本の各地で民間伝承薬として長い命脈を保ち製造されてきた薬です。

  

参考:長野県衛生部薬務課『信州の民間薬』から

銭谷武平・銭谷伊直著『陀羅尼助』から

銀河書房編『木曽御嶽百草物語』から

昭和51年12月14日中日新聞記事から


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