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生薬の話

万歳の声が聞こえる

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明けましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になりありがとうございました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

「万歳の声が聞こえる」

私が育った日野屋(ひのや)は、事あるごとに、たくさんの人たちが集まり「万歳」「日野製薬万歳」という声がとどろく家でした。

お正月の二日には、会社の人たちが集い、新年の挨拶が交わされ、宴会が催されました。宴は決まって、英雄叔父(父の弟:経営の一翼を担っていた)の厳粛な「鶴亀」の謡い(うたい)から始まり、次に、父が手拍子を打ち、木曽の祝い唄「高い山」を高らかに唄い、続いて、原さん(常務)、高柳さん(工場長)、ババ(柳川テツエ:住み込みで家事一切を手伝ってくれていた)が唄い、皆が加わり、「木曽節」や「炭坑節」や「荒城の月」などを合唱し、それは賑やかなもので、最後は、「日野製薬万歳」の三唱でお開きとなりました。

「日野家の亡三兄弟」

ここに掲載した写真は、昭和30年代前半の頃のものです。

父「文雄:33歳で文平を襲名し日野製薬を経営」、叔父「英雄:父の片腕として日野製薬を経営」、叔父「寛己:松本で薬局を経営」それに、三兄弟の敬愛していた上松本陣の御爺様と母(富美子)が一緒に写っています。

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亡父 文平(ぶんぺい)

父は、東京・名古屋・大阪に出張していることが多く、御嶽登拝シーズンの夏山中は、黒沢口6合半の小屋に泊まり込んで商売(百草・百草丸の販売)していたため留守がちでしたが、家にいる時は、近所にとどろき渡るような柏手を打って神様にお参りし、誰よりも早く出社する軍隊仕込みの規律正しさとエネルギーに満ち溢れた人でした。伯母たちは、颯爽と出かけていく父の後姿を見て「文雄は亥年生まれだから猛然と突き進んでいく猪突猛進(ちょとつもうしん)の性分」と言っておりましたが、実は誰もが父の存在だけで元気と勇気をもらっていたような気がしています。毎年7月10日の御嶽頂上で執り行われる開山祭には、一心様(日野家が尊称する江戸時代の御嶽信仰の行者)の掛け軸を背中に背負い、登拝に出かけていくのを、玄関の上がり框で、私たちは正座して見送ったものでした。若い頃から行政にも力を注いでおりました。

亡叔父 英雄(ひでお)

その父とは対照的に細やかな心遣いと優しさに溢れた性格の英雄叔父は、中京・名古屋地区を中心に営業に回り、夏山中は、王滝の出張所(現在の王滝店ではなく王滝の集落の中に出張所を借りていた)を担当していました。父の片腕として、裏方として、働き詰めに働いて48歳の若さで身罷ってしまいましたが、公民館長やPTA会長等に就き、一人の人生の2倍も3倍もの凝縮した時を刻んだ生涯だったように思います。会社に大切な取引先の方が訪れると、英雄叔父が実家に駆け込んできて、窓や戸を開け放ち、はたきをかけ、箒で家中を掃き清めて、母が料理作りに勤しんでいた光景が浮かんできます。観世流の謡をたしなむ端正な英雄叔父の姿が今も私の心に深く刻まれています。私が国家試験に受かった時には大層喜んでくれて英雄叔父・菊江叔母夫妻が素晴らしい手料理でお祝いをしてくれたことは忘れられない思い出です。

亡叔父 寛己(ひろみ)

寛己叔父は、小さい頃から牛肉が好きで、大人になったらいっぱい牛肉が食べられるようにと蔵の二階で一生懸命勉学に励んだのだそうです。昭和29年より、松本で薬局をしながら、環境衛生活動に長年力を注いでいたことをずっと後に知りました。

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亡父・亡叔父たちは、三人三様に思いの限りを尽くして、仕事と社会活動に邁進し、日野家と日野製薬の未来を切り拓き、今日の礎を築いてくれました。私などは、足元にも及びませんが、本年も皆と力を合わせて良い製品づくりに励みますので、よろしくお願い申し上げます。


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