縁(えにし)

2013年5月

今年は桜の開花後に雪が降るというように寒暖の差が激しい日々が続いていますが、これから木曽の山々はしだいに木々が芽吹いて、目に鮮やかな緑に覆われるものと思います。

弊社の本社や直営店が所在する長野県木曽郡は、この十年間で、人口が3万5千292人から2万9千855人に減少し、65歳以上の占める割合が31.3パーセントから37パーセントに増えています。木曽地域には年をとっても元気な方がたくさんいますが、やはり高齢化が進み若年層が減少してくると、地域の活力の低下と後継者不足が懸念されます。

この木曽地域の未来を明るくするために、「未来の子供たちが住みたくなる木曽」にするにはどうしたらよいかということを、行政と民間で協力して、様々な視点から考察し、課題を設定し、実行していくことが大切と思います。

平成19年度から取り組んでいる「木曽丸ごと夢作り活動」の中で、「未来の子供たちに残したい木曽の地域遺産」の保全活動を行っています。

木曽は自然に恵まれている地域ですが、谷あいの各集落には自然と共生しながら、生み・育まれてきた貴重な文化遺産が残っています。私は、それを森林文化、水の文化、街道文化、信仰文化の四つのカテゴリーに分類できると考えています。「森林文化」とは、住まい、道具、食器、燃料など生活の中で使われた木の育林、伐採、運搬、製材、加工の各工程で発達した文化、「水の文化」とは、木曽川とその源流沿いに発達してきた文化、「街道文化」とは、江戸時代の五街道の一つの中山道沿いの木曽十一宿で発達した文化、「信仰文化」とは、御嶽山や木曽駒ケ岳のようにひときわ高い山に対する山岳信仰から発達してきた文化のことです。

昨年から信州大学の産学官連携本部と、信州大学の先生方に木曽の地域遺産に関する研究をしていただこうと話し合いを進めています。依頼する研究課題を設定するために、木曽の有識者と会議をして考察を深めてきました。その結果、新たにわかったことや反省することがあります。

私は、「昔の木曽地域は中山道沿いに11の宿場があり、旅人相手と農林業で細々と生計を立てて暮らしをしていた」とイメージしていましたが、これは現代の様子から類推したイメージであって、地域遺産の歴史的な価値を正しく認識できていないと反省しました。

たとえば、弊社のある木祖村の菅地区に江戸時代からの民蘇堂野中眼科があり、江戸時代の医療器具や文化財などがたくさんの残っています。この野中眼科に、江戸時代に四国の患者を診察した記録があります。当時は徒歩での旅行なので、四国から菅まで一週間以上かかったと思います。このような片田舎の医者の存在を四国の患者が知り、はるばる来たことを不思議に思っていました。

江戸時代に貝原益軒 は『木曽路之記』貞享二年(1685)の中で、

「木曽の本谷よりは水なお多し。おんたけ川という。おんたけとは木曽の御嶽(みたけ)なり」「其の谷の奧に材木おびただし。」、「杣人(そまびと) 二、三月に山に入りて十月に出る。およそ幾千百人ということ知らず」

と記述されています。

天保九年(1838)の「木曽巡行記」によると、木曽地域の総人口は3万4千106人でしたが、尾張藩は林業で藩の収入を得るために林業専属の役人を置き、木曽の村人だけでは足りずに、紀伊半島や四国から杣人を呼んできて、林業に従事させていたようです。人口の一割を超える杣人が他国から来て働いていたことから、木曽地域は一大林業の産地であり、林業と宿場で経済的にも豊かであったと思います。この新たに得た知識から、長らく不思議に思っていた、野中眼科に四国から患者が来た理由もわかりました。恐らく四国から来た杣人かその縁者であったと思います。このように現代の目からは不思議に思うことも、歴史的事実がわかれば解明できることが多々あると思います。

木曽については、過去にたくさんの方が研究されています。その研究成果を踏まえつつ、全体を包括する構想を立てることが最も重要と思っています。

構想をまとめ、信州大学の協力を得られるように研究課題を定め、「未来の子供たち残したい木曽」の保全につなげていきたいと存じています。