縁(えにし)

2011年11月

10月10日()の体育の日に、御嶽黒沢口の八合目まで登ってきました。御岳ロープウェイの駐車場に行ったら建物前の駐車場は一杯で、第二駐車場に車を止めました。8月、9月は登山客が少なかったですが、10月に入って例年並みに戻ったようです。ロープウェイ乗り場横のお花畑から、御嶽の五峰がくっきりとよく見えました。ロープウェイに乗っている間も御嶽の各峰はよく見えましたが、遠くの山々は霞んでいました。ロープウェイを降りて少し歩くと行場山荘があり、改装工事中でした。今年から来年にかけて御嶽山中の山小屋のトイレの改造が予定されていますが、行場山荘は部屋も建て替えての改造なので、かなり費用がかかるようです。登山道沿いの広葉樹はすでに色づいていました。一緒に連れて行った四歳の孫娘は、危険な箇所以外は自分の足で歩いて登っていたので、すれ違った登山客から励ましの声がかけられました。いつもの倍の時間がかかりましたが、無事八合目の女人堂に着きました。すでに紅葉の盛りが過ぎていたのと、今年は台風で葉が落ちてしまったので、例年のような見事な紅葉ではなかったようです。昼食休憩後、下山しました。適度な運動と、晴れた日に登山できたので、気分壮快になりました。

 八合目からふもとまでは森林でおおわれているように、木曽は森林面積が93%を占める自然に恵まれた地域です。森林が重要な生活の糧であった時代には、植樹、育林、間伐、伐採、薪や炭の燃料や木材としての利用の循環を通して、様々なノウハウが蓄積されてきましたが、林業の衰退とともに、森林の手入れが不十分なために、山が荒れ果て、里に下りてきた猿、猪、熊などによる獣害が頻発するようになってきました。

江戸時代に尾張藩の直轄地であった木曽地域は、山村代官の医師の三村道益や尾張藩本草学者水谷豊文などの調査研究により、薬草の宝庫として知られるようになりました。水谷豊文は木曽の各地で採取した薬草を「木曽採薬記」の中に記載していますが、その中に「御嶽山日野百草丸」の原料のキハダ、センブリ、ゲンノショウコ、リンドウが紹介されています。尾張藩の奨励により木曽の薬草の採取が盛んになり、それが江戸時代から服用され続けてきた「百草」、「奇応丸」につながったと考えられます。

現在、生薬原料の大部分を中国など国外産に頼っていますが、レアアースの問題で明らかになったように、中国の事情で、原料の輸入が困難になることが懸念されるので、原料の国産化を図ることが必要となってきています。木曽地域で薬草の栽培や、百草の原料であるミカン科のキハダの植樹・育林を行い、その原料を使って医薬品の製造をするような仕組みを構築すれば、人々の健康長寿に貢献するばかりでなく、木曽山の再生に貢献することが可能と考え、取り組むことにしました。

5月28日(土)に木祖村の味噌川ダムから奥木曽湖沿いに右岸を奥のほうに行ったところにある分収林で、ミカン科広葉樹のキハダの植樹をしました。弊社社員、木曽森林管理署、木曽森林組合、NPO法人木曽川・水の始発駅、日本大学の学生、東京からのボランティア三名が加わって、三十数名で約八百本のキハダの植樹を行いました。現地で森林組合から植樹の仕方の説明を受けて、各自、鍬と苗木を持って植樹を行いました。瓦礫で石が多い場所を除いては、土は固くないのですが、熊笹の根がはびこっていて、掘り起こすのが大変でした。何とか根が入る深さまで掘り、苗木を支えながら土を戻し踏み固めてから、直接日の光が当たらないように枯葉で土の上を覆います。約二メートル間隔で木を植えていきました。この場所には檜も植えてあります。檜は陰樹ですが、広葉樹と混林することにより水源を涵養したり、肥料分の流失を防ぐことができます。ただ、残念ながら、上のほうの急斜面に植えてある檜は熊の爪で皮がはがれていました。植えた全てのキハダの横に添え木を立てて本数確認をして、二時ころに作業が終わりました。

日本大学の学生は植樹後の生育状況を毎月確認し、卒論にまとめることになっています。九月に学生が所属する研究室の桜井教授に生育状況をみていただきましたが、植える場所の問題やカモシカなどにより葉が食べられてしまったことに対する対策などを教えていただきました。

このような体験を通して、植樹・育林のノウハウを身に着け、木曽山の再生に貢献したいと存じています。


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