縁(えにし)

2009年7月

 五月になって木々が芽吹いて目に鮮やかな新緑に包まれてくると、改めて、木曽に住んでいてよかったなと思います。

 六月一日に施行の改正薬事法により、古くから愛用されてきた伝統薬(生薬製剤や漢方薬)が消滅するかもしれないという危機に直面し、規制緩和に向けて活動してまいりましたが、改めて伝統薬を文化遺産として後世に伝えていくことの重要性を認識いたしました。今回は木曽の文化遺産をご紹介します。

 江戸時代に尾張藩の直轄地であった木曽地域は、山村代官の医師の三村道益や尾張藩本草学者水谷豊文などの調査研究により、薬草の宝庫として知られるようになりました。水谷豊文の「木曽採薬記」の中に「御嶽山日野百草丸」の原料のキハダ、センブリ、ゲンノショウコ、リンドウが紹介されています。生薬製剤の百草と奇応丸は江戸時代から妙薬として珍重され、明治四十四年発行の薬剤誌に「参詣者参萬余人を以て有名なる御嶽山産物として、白衣金剛杖の信者間に多大の需要ある駒草、山人参外十数品の薬草は毎年二千円、売薬たる百草は黄柏エキスの単味或は他の二三味を配伍したるものにして毎年一千円、その他奇応丸は毎年壱萬円の売上高ありという。(薬剤誌一五九号)」と紹介されています。

 江戸時代の五街道の一つの中山道沿いには、参勤交代の大名行列、伊勢参り、善光寺参りなどの物見遊山客、御嶽信仰の先達や信徒達、松尾芭蕉などの文化人、仕事・用事のある人たちなどに対する宿泊、食事、土産物、工芸品、薬、医者、寺などのサービス提供を通して、あるいは旅人から学ぶことにより街道文化が発達しました。百草や奇応丸は旅人の常備薬、あるいは、お土産として全国に普及しました。したがって、伝統薬(伝承薬)は街道文化の一要素といえます。

 御嶽山や木曽駒ケ岳のようにひときわ高い山に対する山岳信仰から発達してきた信仰文化があります。江戸時代の後期に御嶽山の黒沢口を覚明行者、王滝口を普寛行者がそれぞれ開いたことにより、一般の人が御嶽山に登拝できるようになってから先達に率いられた御嶽講の信徒による御嶽参りが盛んになり、御嶽信仰特有の信仰文化が発達しました。頂上までの登山道沿いに御嶽信仰の歴史を物語る社堂、鳥居、石碑、石像、銅像、石燈籠が建立されています。山頂の王権現を首座として山中、山麓にかけて祀られていた御嶽座王権現三十八座(三十八座の神仏)のうち現存する史跡、鎌倉・室町時代の領主木曽氏や江戸時代の尾張藩主とその家臣の山村代官の厚い崇拝を受けて寄進された建造物や絵馬、絵画などの歴史的価値があるものや、御嶽神社と御嶽講社によって建造された霊場、水行の滝(自然の滝、御嶽講社が造った人造の滝)、素晴らしい景観の中の神秘的な史跡の中から、七百年の歴史ある御嶽神社の宮司が三十八の史跡を認定いたしました。その史実や伝承と人々を惹きつける魅力を多くの人たちに知っていただき、さらに、後世に伝えるために三十八史跡巡りの仕組みを作りました。

 木曽は香川県と同じくらいの広さの中に森林が九十三%を占めています。伊勢神宮の二十年ごとの遷宮に木曽の檜が使われるように、木曽は檜の産地として有名で、赤沢美林、水木沢美林、油木美林など樹齢数百年の天然林が残っています。森林が重要な生活の糧であった時代には、植樹、育林、間伐、伐採、薪や炭の燃料や木材としての利用の循環を通して、様々なノウハウが蓄積され、森林文化が発達しました。

 この森林を通して流れ出てきた水を生活用水として利用してきた水の文化があります。宿場には水場があり、生活用水だけでなく火災の延焼を防ぐ明地としての役割をしていたようです。木曽節の中の「中乗りさん」は木材を木曽川で運搬した際、組んだ小さな筏の真ん中に乗った人のことといわれているように、川を木材の運搬に利用してきました。また、流域にはいくつかのダムがあり、エネルギー供給に貢献しています。源流と木曽川流域には福沢桃介ゆかりの史跡が残っています。

 薬草の宝庫であった木曽地域の伝統を伝えるために、御嶽山麓黒沢口にある直営の里宮店付近にある空き地を整地して生薬園をつくることにしました。数年かけて薬草、薬木を植え、御嶽神社里宮を訪れた人たちが観賞しながら散策できる憩いの場所とする予定です。このような活動を通して、木曽地域の文化遺産の保全活動に貢献していく所存です。


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