縁(えにし)
2006年6月
私は木曽地域の四月後半から五月末までの景色の変化が一番好きです。雪に覆われた御嶽山や木曽駒ケ岳を背景に、梅、桜、ももなどの花木が殆ど同時に開花します。花が散る頃から、針葉樹や広葉樹が芽吹き始め、茶色かった山々が次第に目に鮮やかな新緑で覆われていきます。今年は四月二〇日頃まで雪が降り、不順な気候が続いたので、花木の開花が例年より約一週間遅れました。連休に入るころから暖かい日が続き、一気に遅れを取り戻したようです。
今年の二月に国道三六一号線の権兵衛トンネルが開通し、今まで木曽谷と伊奈谷の間を車で行き来するのに約一時間半かかっていたのが三〇分程度になったことで、非常に沢山の観光客が木曽谷を訪れるようになりました。
トンネルが開通するまでの道は江戸時代に木曽谷と伊那谷を結ぶ要路で、「高遠のお蔵米」が権兵衛峠を越えて運ばれてきました。私は小学校時代にこの権兵衛峠に遠足に行きました。途中まで森林鉄道沿いに歩いて行った記憶があります。権兵衛峠から見た景色はよほど印象に残ったのか、伊那谷が木曽谷に比較して非常に広いと感じたことと、その中の家並みに光ったトタン屋根があったことを今でもありありと覚えています(当時の木曽谷の家々は石がのった板葺きの屋根でした)。権兵衛峠の真下をとおる権兵衛トンネルが開通したことによって権兵衛の名称がよみがえり、再び要路となりました。高遠の桜を見てから木曽路に来たという方の話を聞いて、歴史のつながりと、木曽谷と伊那谷のより緊密な交流が始まったのを感じました。
伊那側から木曽に来る場合に国道一九号線に接続する場所が二箇所あります。その一つが奈良井宿です。奈良井宿は江戸時代に中山道の難所であった鳥居峠のふもとにあり、旅人や参勤交代の大名行列が峠越えの前ないしは後に宿泊するので、奈良井千軒といわれるほど栄えた宿場町でした。大きな火災もなく、明治時代に鉄道開通後は林業以外にめぼしい産業がなく古い家に住み続けたため、江戸後期の家並みが残っていました。櫛問屋の中村邸の川崎市への移築問題を契機に保存運動が起こり、昭和五十三年五月に文部省から「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けました。江戸時代の面影の残っている家々に、実際に住み、生活を営んでいることが注目され、マスコミに取り上げられることも多くなり、次第に観光客が増えて、今は年間約三十万人の観光客が訪れる観光地になっています。米国で発行されている「生涯に行って見たい千の場所」という本に中山道の宿場町があげられているためか、国外からの観光客も見かけます。毎年六月の第一金・土・日に「奈良井宿場祭」が開かれ、江戸時代に京都宇治からお茶が徳川家へ献上されたときの行列を再現した「お茶壷道中」が第一日曜日の午後に旧街道を練り歩きます。奈良井宿の隣の平沢地区は今年四月に漆器作りの職人の町が残っていることから「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けることが決まりました。この平沢地区で同時に漆器祭りが開かれ、買い物客と観光客でにぎわいます。
このように木曽地域は活気を帯びてきていますが、当社も本社での工場見学、御嶽山麓にある王滝店、里宮店、奈良井宿の奈良井店に訪れたお客様に満足していただけるように社員一同心を合わせていく所存です。
代表取締役 井原 正登