縁(えにし)

2015年5月

四月の中頃から暖かい日が続き、後半には桜が一斉に開花しました。桜の花が散り始めたころから、白い花と赤い花の花桃と、目に鮮やかな黄色い花の山吹が道沿いに咲いているのを見ると、木曽の自然の良さを改めて感じます。連休の後半から少し寒い日が続きましたが、初夏らしい新緑に囲まれ始めました。

今回は胃腸薬百草・百草丸の歴史をご紹介いたします。
御嶽山は、江戸時代後期に至るまで、七十五日間ないしは百日間の精進潔斎を経た道者(どうじゃ)だけが登拝を許されていましたが、尾張の覚明行者が天明五年(1785)に黒沢口登山道を改修し、水行の軽精進だけで信者を引き連れて登拝し、江戸の普寛行者は寛政四年(1792)に新たに王滝口登山道を開削し、御嶽講儀を組織して御嶽信仰の普及を図りました。現代もそうですが、よそから来た人が、地元の人たちの信頼を得るのは大変だったと思います。修験者は薬草に詳しかったと言われているので、恐らくこの二人の行者も、薬草を使って人々の病を直し、人びとの信頼を得たと思います。キハダの木の内皮の薬効についても知っており、内皮を煮出し煮詰めて薬にすることを地元の人に教えたものと思います。これが木曽特産の百草の始まりです。

この両行者の尽力よって御嶽山は誰もが登れる山に解放されたのです。さらに覚明行者と普寛行者の後を継いだ広山行者、順明行者、一心行者、一山行者、儀覚行者、義具霊神などの布教活動により御嶽信仰は全国普及し、各地に御嶽講社が結成され、毎年、先達に率いられた白装束の信者が御嶽山登拝に訪れるようになりました。
明治四十四年(1911年)に発行された薬剤誌に御嶽山の薬草と売薬の記事があります。

御嶽山の薬草及売薬販売高
海抜一萬百廿八尺参詣者三萬餘人を以て有名なる御嶽山産物として、白衣金剛杖の信者間に多大の需用ある駒草、山人参外十數品の薬草は毎年二千圓、売薬たる百草は黄柏エキスの單味或は他の二三味を配伍したるものにして毎年千圓、其他奇應丸は毎年一萬圓の賣上高ありという。
(明44・10・10、薬剤誌一五九号、長野県通信、箕浦辰三郎)

今ほど薬がなかった時代に百草は万能の腹薬と言われ、胃腸薬や下痢止めだけでなく、板状の百草を温めて溶かして湿布薬として使ったり、湯で溶かしてうがい薬にしたり、さまして目薬として使うというように珍重されてきました。これは百草・百草丸の主成分である「オウバク」の経験的に実証されてきた効能・効果であり、江戸時代から愛用され続けている要因と言えます。

日野製薬の前身の日野屋は、江戸時代に中山道木曽十一宿の一つの藪原宿で旅籠をしていました。日野屋には水行ができる滝があり、普寛行者の最後の弟子の一心行者や順明行者をはじめとする御嶽信仰の信者の定宿でした。日野屋には両行者直筆の掛け軸があります。
上述したような百草の効能・効果が次第に知れ渡り、信者だけでなく一般の旅人も百草を常備薬ないしはお土産として購入したので、日野屋でも販売していました。

百草丸は意外と新しく、昭和三十年代に開発され、製造販売するようになりました。

昭和五十年代から平成にかけて御嶽信仰が盛んであったころは、全国に信者が百万人にいたと言われ、七,八月の夏の登拝時期には登山口から頂上まで行列ができ、頂上奥社で待ち行列ができたと言われるほど賑わいました。同じころの冬のスキーシーズンには、王滝口にあるスキー場に数十万を超えるスキー客が来るようになり、ピークの平成四年には約70万人のスキー客が来ました。当時、御嶽山麓の直営店に勤務していた社員から、国道十九号まで車が渋滞していたので、逆方向の岐阜県まで遠回りして帰ったという話を聞いています。このように御嶽信仰の信者、観光客、登山客、スキー客の皆様に愛用され、口コミで伝わったことにより百草・百草丸が普及して参りました。

4月1日から発売しました「百草丸プラス」は、ストレスなどで胃が荒れた人には効果があります。多くの方々の健康に寄与することを願っています。