縁(えにし)

2011年6月

東日本大震災及び長野県北部地震で被災された方々に謹んでお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方々、そのご家族、関係者の皆様には、心より哀悼の意を表します。
今年は5月に入っても朝夕寒い日があり、弊社本社のある木祖村では、例年より一週間遅く、5月の連休中に桜が満開となりました。
さてNHKの朝の連続ドラマ「おひさま」は長野県の安曇野を舞台としていますが、主人公の陽子が友人と女学校に通うときに通る昭和十年代の家並みは、江戸時代の宿場の面影が残る奈良井宿(塩尻市奈良井)で、昨年12月に撮影されたものです。ときおり奈良井の人がエキストラで出ているのを見ることがあります。4月に放映されてから、奈良井宿を訪れる人が増えています。ここで奈良井宿のことを少し紹介します。
昭和53年5月に文部省から「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた奈良井宿は、江戸時代の五街道の一つの中山道沿いにあり、奈良井千軒と呼ばれるほど栄えた宿場町でした。標高九百三十メートル余の高地にあり、木曽福島寄りの南の方から上、中、下の三町からなっています。上町の元医院のあたりから、保存地区の指定を受けるきっかけとなった中村邸あたりまでに、昭和十年代の風情のある看板を掛けて「ひまわり」の撮影に使っていました。
宿場の両端には八幡社と鎮(しずめ)社が鎮座して宿場を守っています。町並は何れも間口が狭く、民家がぎっしり建ち並んでいます。一階より二階が1メートル前後張出した「出梁(だしばり)造り」であることと、この軒に金具で吊り下げられている装飾用庇(ひさし)が、奈良井の建築の特徴です。板が重なっている部分を鎧庇(よろいひさし)、板の上にのっている繰形のある木を猿頭(さるがしら)と呼びます。二階の隣家との境につけられた白漆喰の壁は火事の延焼を防ぐためであり、袖壁と言います。家の間口は二間半から三間半で、奥行きは六間から九間くらいあります。江戸時代にはこの家の間口の巾によって「伝馬役」という課役が決まっていて、荷物運搬のために人足や牛馬を出したようです。奥までうなぎの寝床のように縦長に部屋がならんでいます。風通しが良いように、床は普通より三十センチほど高くなっており、天井が低く、玄関を入ると「通り土間」が裏まで通じています。奈良井の多くの古い家は江戸時代の終わり頃(天保~弘化年間(1830~1847)に建てられたようです。江戸時代の参勤交代の行列は、禄高が多い大名になると千人を超えていて、この宿泊の手配をするのが上問屋の重要な仕事でした。上問屋は奈良井の全戸の間取り図(宿場絵図)を持っていて、武士の身分と各家の間取から、どこに誰が宿泊するかの宿割りを決めたようです。
中町と上町の間は道が曲がりくねっているところを鍵の手と呼んでいます。これは敵が宿場を見通せないようにすることと、直進できないようにするという防御の目的で作られたと言われています。この場所に火除(ひよけ)明地(あきち)が設けられたので、延焼を防ぐ防火の目的もあったようです。中町と下町の間にも火除明地があり、ここも鍵の手だったようですが、道は曲がりくねっていません。
道に沿って自然水が流れ込むきれいな水場が五ヶ所、ほぼ等間隔に配置されていましたが、数年前に塩尻市が貴重な歴史的遺産の水場を壊して、新たに水道水の水場をこしらえ、まったく風情がなくなってしまいました。このことを残念に思う奈良井中町の有志が年内に水道水を自然水にもどそうと活動をしています。水場の横にある空き地は、火事が起きたときに類焼を防ぐ火除明地と呼ばれていました。
鎮神社の手前に、昭和48年に昔の絵図面を参考にして復元された、幕府や藩が定めた掟・条目・禁制や宿継ぎの駄賃などの掲示用の高札所があります。下町の専念寺の入口と上町の鎮神社前に桝型(ますかた)と呼ばれる桝のように四方形に石垣や土塁を築いた場所があります。
「奈良井に過ぎた寺過ぎた」と言われるほど寺が多く、西側の山裾に専念寺(浄土真宗)、法然寺(浄土宗)、大宝寺(臨済宗)、長泉寺(曹洞宗)、浄龍寺(浄土真宗)の5つの寺があります。
このように昔の宿場の面影が残っている奈良井宿は一見の価値があります。奈良井宿を訪れた際に、弊社奈良井店にお立ち寄りいただけたら幸いに存じます。


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