縁(えにし)

2009年11月

  秋に入って晴天の日が続いたのと、シルバーウィークの連休もあって、木曽地域を訪れる人たちも例年より多いように感じます。

  木曽地域にはお六櫛、曲げ物の木工品、漆器などの伝統工芸品があります。お六櫛は弊社のある木祖村の特産品で、堅いミネバリの木から作られ、歯間が細かい櫛です。今のようにシャンプーがなく、頻繁に髪を洗うことのなかった時代には、汚れやフケを取るのに最適な櫛として珍重されていました。曲げ物とは天然乾燥した節のない良質の檜を薄い板状に削り、熱湯で柔らかくしたのちに型に巻きつけて成型し、乾燥させてから、合わせ目を接着して桜の皮で縫い合わせて留め、底板をはめ込んで作った木地のことです。曲げ物は弁当箱などに使われ、漆器の木地の一つと見ることができます。

  ここでは、木曽の漆工芸品について、歴史・製作技術の概要をご紹介します。

  木曽漆器の歴史を記述した古文書が殆ど残っていないので、いつごろから木曽漆器が始まったかは定かではありませんが、西筑摩郡誌によると天正から慶長年間(1537~1615)にかけて生産が始まったといわれています。木曽地域は山に囲まれ農地に乏しいので、必然的に山の仕事や林産物の加工で生計を立てていました。木曽漆器は、白木の曲げ物などに汚れを防ぎ、耐久性を増すために漆を塗った生活用品としての漆器が大部分でした。ところが江戸時代中期から製作された塗り櫛(くし)に蒔絵(まきえ)を施したところ、中山道を旅する人たちの格好のお土産品として爆発的な売れ行きがあり、江戸・大阪・京都に販売店までできたようです。しかし、大正末期になると髪型の変化により需要が急速に衰退し、現在ではこの技術の継承はされていません。明治初年になって、輪島の「地の粉」下地に匹敵する錆土が奈良井地区で発見されたことにより、高級漆器の生産が可能となりました。戦前は曲げ物類を中心に各種製品が作られていましたが、戦後は他産地と競合を避けるために座卓や飾り棚が主力製品となりました。現在は様々な需要に応えた製品が制作されています。

  漆は、漆の木に傷をつけたとき、そこからにじみ出てくる樹液を採取したものです。漆器の制作は漆が乾きやすい梅雨の時期が向いています。「乾く」とは水分の蒸発による「乾燥」ではなく、適度な湿度と温度条件のもとで酵素ラッカーゼの作用によって化学的な反応を起こして堅牢な塗膜を作る「乾固」を意味します。漆は漆器だけでなく室内の板壁の塗装剤としても優れています。ペンキなどの化学製品のような健康障害の問題もなく、費用面でも大きな差がないので、日本家屋の塗装剤としてもっと使われてもよいと思います。

  漆器の製作は、木地作り、漆塗り、加飾の工程があります。塗漆工程は、大別すると木地調整、下地工程、地塗り工程、塗り工程の四つからなり、各工程の中の作業工程は塗り師や漆器の種類によって多少の相違があります。木曽平沢在住の漆器工芸家の佐藤阡朗氏に汁椀の塗漆工程について説明を受けたことがありますが、全部で二十四の工程があるということです。加飾とは絵や文様などの装飾をすることをいい、その技法には漆絵(うるしえ)、蒔絵(まきえ)、螺鈿(らでん)、平文(ひょうもん)、沈金(ちんきん)などがあります。沈金は沈金鑿(のみ)を用いて文様を彫りその刻面に生漆を引き、金箔や銀箔などを埋めて文様とする技術のことです。漆器の制作にいかに手間がかかり、大変であることが、分かっていただけると思います。

  伝統工芸品が生活必需品であれば、利用者から様々な要求があり、職人も使い手の立場になって創意・工夫するので、その技術も磨きがかかり、技術レベルが高くなります。ところが、日用品としての需要が衰退していくと、まず、周辺の製作用の道具を作る職人や原料を作る職人などが生計を維持することが困難になり、よい道具やよい原料の入手が困難になります。そのうちに製品を制作する職人もいなくなり、技術が途絶えることになります。

  木製の漆器は、大切にして使えば長持ちし、塗り直しをすれば何代にもわたって使い続けることが可能です。出来合いの食品を入れたプラスチック製の容器が使い捨てられる現代において、環境問題への対策から、自然の恵みを活用し、自然と共生してきた人間の叡智が見直されてきています。木製の漆器が後世に亘って生活必需品として愛用され続けることを願っています。


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