縁(えにし)

2007年6月

  五月に入って里のほうから芽吹いてきて、茶褐色だった山々も次第に若葉で覆われてきました。地球温暖化で真夏日のような暑い日もあり、季節感が変わりつつありますが、例年通りに新緑に覆われた山々を見ていると、自然の力の偉大さを改めて感じます。

  日野製薬本社のある木祖村は江戸時代に中山道の難所であった鳥居峠のふもとの宿場町の藪原宿と小木曽村、菅村が明治時代に合併した村です。

  木祖村の伝統工芸品の「お六櫛」は、江戸中期頃から中山道藪原宿のお土産として全国に広まったようです。お六櫛の名前の由来は、「美人で評判の旅籠の娘お六がミネバリの木で作った櫛で朝夕に黒髪を梳いたところ持病の頭痛が全快したことからである」と言い伝えられています。

  木祖村は木曽川の「源流の里」として、森林保全・水源涵養に力を注いでいます。当社も木曽川沿いの整備に協力するために、苗木を寄付しました。源流の味噌川には味噌川ダムがあります。会社近くの木曽川の橋は、いつもは水面から2メートル位離れているのに、昨年の豪雨のときに水面から50センチ位になりましたが、結局洪水にならずに済んだので、改めてダムの威力を実感しました。ダムによって堰き止められてできた奥木曽湖の周辺では、この時期に毎年自転車レースが開かれます。

  江戸時代に尾張藩の直轄地であった木曽地域は、山村代官の医師の三村道益や尾張藩本草学者水谷豊文などの調査研究により、薬草の宝庫として知られるようになりました。水谷豊文は木曽の各地で採取した薬草を「木曽採薬記」の中に記載していますが、その中に「御嶽山日野百草丸」の原料のキハダ、センブリ、ゲンノショウコ、リンドウや木曽川源流の味噌川の名前がついた「ミソガワソウ」が紹介されています。「ミソガワソウ」は余り薬効がないのか、現代の薬用植物図鑑には記載されていませんが、木祖村の調査により、味噌川周辺に現在も群生していることが判明しました。尾張藩の奨励により木曽の薬草の採取が盛んになり、それが民間伝承薬の「百草」、「奇応丸」につながったと思います。

  江戸時代に薮原宿に勝澤、宮川、小木曽村に深澤、菅村に野中、奥原と実に5人の医師がいたようです。民蘇堂野中眼科と「菅の虫封じ」と知られていた奥原医院には長野・愛知・岐阜の近県はもとより遠く北海道や九州から病人が来ていたということが昭和十年三月発行の文芸春秋の「仁のわざ」の中で紹介されています。民蘇堂野中眼科は6代続いた名医で、現在は松本で眼科医院を開いておられます。菅の民蘇堂野中眼科資料館は、先生が在宅のときに、江戸時代からの眼科医療器具や寺子屋の資料などを閲覧することができます。

  このように病人の医療に力を注いできた村で、江戸時代から民間伝承薬「百草」を作り続けてきた伝統を守り、皆様の健康長寿に寄与するとともに、地域に貢献してまいります。

  代表取締役 井原正登


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