「百草」は、江戸時代末期、木曽御嶽山に祀られる御嶽大権現の宣託を受けた修験者が、御嶽山ろくに自生するキハダの内皮を煎じて薬とすることを村人に伝授したのが始まりとされています。幕末当時は富士信仰や伊勢信仰といった民間信仰の全国的な隆興を背景に、御嶽信仰も江戸・尾張・大阪へと広がっていきました。御嶽山の修験者が伝えた薬は、御嶽信仰の信者に「御神薬」として扱われるようになったため、主に中山道木曽十一宿の北部、奈良井〜木曽福島、三岳、王滝などでは家伝薬としてこの薬の製造を行うようになりました。
江戸時代に中山道の薮原宿で旅籠を営んでいた日野屋はこの百草の製造をし、御嶽登拝の信者や旅人に販売をしていました。薮原の鳥居峠の遥拝所境内にある石碑の中に、そのルーツをたどることができます。
嘉永六年(1853)関東講社によって建てられた不動明王像の台座には地元世話人として「薮原宿日野屋文平」の名があり、文久元年(1861)の御嶽大権現(国常立命)像には「当所(薮原)御山宿日野屋文平」とあります。
日野屋では代々、御嶽信仰の再興者である普寛行者の衣鉢を継いだ一心行者を「一心様」と尊称し、一心行者直筆の掛け軸を家宝として大切に保管しています。遥拝所内にある「一心行者像」には年号の記述こそありませんが、「世話人・日野文平」の名が刻まれています。それは旅籠日野屋が、普寛行者や一心様、御嶽信者と深いつながりがあったことを示しています。
明治十年(1877)に造立された権現碑にも「薮原駅休泊・日野文平」の文字があります。明治十年といえば、それまで西洋医学偏重であった明治政府が、売薬としての家伝薬の製造を許可した年。同時に御嶽信者の御神薬が「百草膏」として申請されます。これが「木曽の百草」のブランドを確立しました。「百草」の名は、中国の「神農が百草をなめてその薬効を試した」という故事に由来するとされています。
日露戦争が勃発した明治三十七年(1904)には、関東講社である一心講が途中まで汽車できて、「是より南、木曽路」の碑がある桜沢に一泊して鳥居峠を越え、薮原の日野屋で昼食をとったことが記録されています。
販売許可が出てからは、御嶽信者や御嶽山の登山者の増加とともに「御嶽山の霊薬」・「御嶽みやげ」として百草の需要が増えていきました。日野屋が旅籠を廃業し、百草の製造・販売を家業として始めたのは、宿場の衰退を早めた明治四十四年(1911)の中央線全線開通以降となります。
昭和十年(1925)ごろには、木曽福島町・三岳村(現木曽町)、王滝村ほか木曽路沿道での百草製造者はおよそ40軒を数えましたが、その規模は小さく各業者とも大きな鍋を備えての家内職でした。
昭和十八年(1933)の企業整備令により長野県下で家伝薬を製造していた120余の製造業者を統合した長野県売薬製造統制株式会社が創設されましたが、日野屋も出資・参加しました。
終戦による統制解除後の昭和二十二年(1947)に、日野屋十一代当主の日野文平は独立して「日野製薬合名会社」を設立し、木祖村薮原に本社を置き、百草・百草丸、奇応丸の製造を本格的に開始しました。そして昭和四十二年(1967)三月、日野製薬株式会社と改組し、今日に至っています。
木曽の歴史と風土に溶け込むように多くの人々に信頼されてきた百草の歴史をたどると、そこに数え切れぬほどの先駆者の汗と努力があります。その伝統をしっかりとかみしめながら、より優れた「百草」(=キハダ)の薬効を引き出すべく、日野製薬はたゆまぬ研鑚を続けてまいります。