2016年10月

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今年は十月に入っても雨模様の日が多く、気温の高い日が続いたので、紅葉が遅れているように感じます。数日前から急に寒くなってきたので、下旬には里の紅葉も見ごろになると思います。

今年も7月2日に御嶽山の登山道整備を行いました。計画では黒澤口登山道の九合目までの整備予定でしたが、6月28日に御嶽山の入山規制の一部が解除されたので、案内人組合長の山下氏の提案で、湖沼では日本最高所(2905 メートル)の二ノ池までの登山道整備を行うことになりました。緩んだ枕木の補強や雨水が流れやすくする作業をしながら登りました。御嶽山噴火以降はパトロール隊の人たちが、登山道を歩きやすくしているので、以前のような枝払いはほとんど必要がなく、森林限界から上の岩場の道の両側にロープでしっかり張られているので、安全に登山できるようになったと感じました。かつては、強力(ごうりき)の人たちが食料などを背負子(しょいこ)に背負って山小屋まで運んでいましたが、今はヘリコプターで運搬します。山小屋は二ノ池から水を引いて浄化して飲み水に使っていましたが、噴火の影響で二ノ池の水が使えないので、木曽御嶽奉仕会提供のペットボトルの水を何本かリュックに入れて運び、休憩した山小屋に差し入れしました。剣が峰頂上まで整備作業を行っていた時は、二ノ池との分岐点に来ると頂上までもう一息と感じましたが、規制区域の剣が峰頂上までの登山道に間違って入らないように、道の両側にロープがしっかり張られているので、分岐点を通ったことも気が付かずに二ノ池に向かう道に入り、剣が峰頂上に向かう道からは見えなかった三ノ池が右手奥に見えました。二ノ池周辺は火山灰に覆われていて、噴火による影響があったことを感じました。

今回は整備作業に加え、清掃作業も行いました。人出で物を運搬した時代に、登山口から頂上まで行列ができたといわれるほど、登山客と御嶽信仰の信者の人たちが来たので、処分しきれないで残った空き瓶や空き缶がある場所があります。二班に分かれて二つの場所で、手分けして拾って集めたら、一か所で10以上の大きな袋いっぱいになりました。人出で運ぶには重すぎるので、ヘリコプターで降ろすことにしました。全部を取り除くには数年かかかりそうなので、来年以降も清掃作業を継続し、王の嶽と呼ばれた御嶽山にふさわしい姿にしたいと思っています。

地方創生の一つとして、訪日外国人旅行者が安心して快適に滞在して観光することができる観光地域づくりが重要な課題になっています。最近、木曽地域で外国人旅行客を見かけることが多くなりました。国道一九号を車で走っているとリュックを背負って歩いている外国人旅行客を見かけることがあります。自宅のある奈良井は江戸時代に中山道沿いの宿場町で、鳥居峠越えという難所があるので、宿泊する客が多く、奈良井千軒と言われるほど栄えたようです。当時の家並みが残っているので、昭和五十五年に重要伝統的建造物群保存地区に指定され、現在は観光地になっています。ここでは、日本人だけでなく外国人の観光客も多く、魅力ある観光地と言えます。

木曽地域は人口減少と高齢化で、地域の活力が衰えつつありますが、魅力的な観光地がたくさんあります。ところが、一昨年の集計によると、長野県の観光地を訪れる滞在型外国人観光客は年間約46万5千人いますが、木曽地域は僅か一万人です。木曽の観光地の知名度を上げる情報発信により滞在型の観光客が増え、地域の特産品の購入量が増えることにより、活力ある地域になってほしいと願っています。
 

2016年5月

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今年は暖かい日が続き、四月の中頃から桜と桃が開花しました。例年は桜が散り始めたころから桃の花が咲きますが、今年は桜の白い花と桃の赤い花を同時に見るという例年と少し違う風景になりました。その後は、例年通りに、目に鮮やかな黄色い花の山吹が道沿いに咲き、次第に新緑に囲まれ始め、木曽の自然の素晴らしさを感じています。
数年前までは新緑の季節になると早朝散歩をして足腰を鍛え、七月の御嶽頂上での開山祭に備えてきましたが、年を取って来て行動が遅くなってきたためか、朝に散歩の時間を取ることが難しくなり、散歩をしなくなりました。車で通勤しているので、会社だけにいると日に千歩も歩かないことになります。

このような生活を続けていた報いでしょうか、ゴルフの飛距離が落ち、血流が悪くなったのか、足の冷えを感じるようになりました。年を取ってきたからやむを得ないと軽く考えていました。
ところが、昨年十月に地元のゴルフ大会で上松町の八十三歳の方と一緒にラウドしたところ、ドライバーの飛距離もあり、殆どのホールでパープレーでした。ゴルフ歴を伺ったところ、ゴルフを始めた年齢は遅かったようですが、長野県のシニアゴルフ・チャンピオンになったことがあるということでした。今年四月の木曽駒・宇山の会員交流ゴルフ大会で若手を抑えベスグロ賞を取りました。

年を取ったことを言い訳にするのでなく、この方のように八十歳を超えても元気でゴルフを楽しみながら、生活を送るようになりたいと真剣に考えるようになりました。
ふと思い出したのが、「人生の五計」という言葉です。中国の南宋時代に朱新仲が説いた「人生の五計」という教訓について、安岡正篤先生は「五つの計(はかりごと)」を実践して人生を送ることの大切さを、先生独自の視点から解説されています。

「生計」人間の本質的な生き方に迫り、いかに生きていくべきか
「身計」いかにわが身を人間として社会に対処していくか、何をもって世に立つか、いかなる職業・価値観をもって生きていくか。
「家計」いかに家庭を営み、夫婦関係・親子関係はどうあるべきか、一家をどう維持していくか
「老計」いかに年をとるか、「老」たるものの価値をいかに活かしていくか
「死計」いかに死すべきか
参照:人生の五計 困難な時代を生き抜く「しるべ」 (PHP文庫) 安岡正篤著

年を取ってから、老計・死計を考えるのでなく、若い時から備えておくことがこの教訓の本義ですが、遅ればせながら、直面している身体的問題を解決するために、日常的に実践すべきことを考えてみました。

安岡正篤先生は健康法として、時間がかからず、激しい運動を必要としない「真向法」を奨励しておられました。真向法は福井県の勝鬘(しょうまん)寺出身の長井津氏が考案された健康体操です。長井津氏は四十二歳の時に脳溢血で倒れ半身不随になりましたが、勝鬘経の礼拝などに基づく四つの動作を繰り返しているうちに健康体に回復されたそうです。この四つの動作(体操)が真向法であり、約三分でできます。

公益財団法人真向法協会のホームページで四つの体操の動画を見ることができます。
http://www.makkoho.or.jp/index.html

私は、以前から興味があった自彊術体操を、三月からほぼ毎日しています。自彊術体操は、手技療法士の中井房五郎氏が考案し、大正五年(1916年)に発表された、三十一の動作からなる体操で、約十五分かかります。この中には真向法の第二体操と第四体操が含まれています。公益社団法人 自彊術普及会のホームページでその内容を知ることができます。
http://www.jikyou.com/index.html
私は、NHKから自彊術体操のDVDを購入し、それを見ながら三十一の動作を覚えました。

のところ夜に自彊術体操をしていますが、朝、時間があるときに真向法にも取り組みたいと思っています。
更に、足の血流対策と脚力強化のために、股関節歩行をしています。膝を曲げないで、かかとから着地する歩行なので、自然と背筋が伸び大股になり、股関節の柔軟性も増します。

自彊術体操と股関節歩行を継続することにより、将来も健康生活を送ることができるようにしたいと思っています。
 

2015年10月

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十月に入ってから秋らしい気候になりました。朝夕の気温が低くなり、山里の木々も少しずつ色づき始めました。下旬には里の紅葉も見ごろになると思います。

昨年9月27日の御嶽山噴火から一年以上たちました。犠牲になられた方々のご家族には辛い一年であったと思います。
例年、夏になると御嶽信仰の信者の登拝と登山客・観光客でにぎわう御嶽山ですが、今年は入山規制があり、登山客や観光客を見かけることがほとんどなく、被災地としての厳しさを味わう一方で、多くの方から慰めや励ましの言葉をいただいたり、訪問していただいた企業や団体もあり、人の心の温かさに触れた一年でもありました。

2007年から夏山が始まる前の七月初旬に地元の行政や民間団体の関係者が参加して、黒澤口と王滝口の七合目から剣ヶ峰頂上までの登山道整備を実施してきました。一昨年から木曽町にある長野県林業大学校の一年生20名が実習作業として、参加するようになりました。若くて長時間の力作業ができるので、登山道に雨水がたまらないように、ツルハシを使って深く長く水の逃げ道を作ったり、緩んだ枕木の杭をハンマーで打ち込んだりする作業をしてもらうようにしました。その結果、整備の質が向上しました。

今年も7月2日に登山道整備を行いました。王滝口は田ノ原高原より上に行くことが出来ませんが、黒澤口登山道は八合目まで行くことができるので、六合目から八合目までの登山道整備を行いました。今年は木曽町の原町長をはじめとする役場の人やテレビ局などマスコミの取材者が同行したので、例年よりも参加者が多い、整備作業となりました。八合目の女人道で昼食休憩をして解散し、下山しました。
午後は東京から来た二人のボランティアの方と六合目から千本松までの登山道整備を行いました。昔はバスの終点が千本松であったので、千本松から登山を開始したようです。千本松から六合目までの間に、御嶽山三十八史跡巡りの黒澤口十番目の史跡「三笠山」と十一番目の史跡「白川大神」があります。この登山道は雨が降ると滑りやすく危険だったので、2010年に枕木を設置したり、倒木を除去するなどの整備作業を実施しましたが、久しぶりにこの道に入ったら、熊笹が生い茂り、二時間ほど熊笹狩りをしても登山道の四分の一程しか刈り取ることが出来ませんでした。後日、案内人組合の倉本さんに残った笹を刈り取ってもらいました。

今年は頂上まで登山ができないので、昔懐かしいこの道を登ってみたという信者の方が結構いたようで、整備した甲斐がありました。
このように御嶽信仰の信者の方々に支えられた一年でしたが、観光客が大幅に減少したことから、御嶽山の多面的な魅力が知られていないことを痛感しました。

登山しなくても魅力的な場所がたくさんあることをいかにアピールしていくかが今後の重要な課題です。例えば、個人的には雄大な御嶽山が見える開田高原は、浅間山が見える軽井沢よりも素晴らしい場所であると思っています。御嶽山にはたくさんの滝があるので、滝巡りも観光スポットとして良いと思います。さらに、黒澤口六合目から御嶽山随一の百間滝に行く道とこもれびの滝、不易の滝からヒノキの天然林のある油木美林を通り百間滝に行く道をうまく整備すれば、上高地に匹敵するくらい魅力的な場所になると思います。

御嶽山噴火は木曽地域に打撃を与えましたが、今までの問題点を知るよい機会にもなりました。問題点と課題の解決に前向きに取り組み、未来ある木曽となるようにしていきたいと考えています。
 

2015年5月

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四月の中頃から暖かい日が続き、後半には桜が一斉に開花しました。桜の花が散り始めたころから、白い花と赤い花の花桃と、目に鮮やかな黄色い花の山吹が道沿いに咲いているのを見ると、木曽の自然の良さを改めて感じます。連休の後半から少し寒い日が続きましたが、初夏らしい新緑に囲まれ始めました。

今回は胃腸薬百草・百草丸の歴史をご紹介いたします。
御嶽山は、江戸時代後期に至るまで、七十五日間ないしは百日間の精進潔斎を経た道者(どうじゃ)だけが登拝を許されていましたが、尾張の覚明行者が天明五年(1785)に黒沢口登山道を改修し、水行の軽精進だけで信者を引き連れて登拝し、江戸の普寛行者は寛政四年(1792)に新たに王滝口登山道を開削し、御嶽講儀を組織して御嶽信仰の普及を図りました。現代もそうですが、よそから来た人が、地元の人たちの信頼を得るのは大変だったと思います。修験者は薬草に詳しかったと言われているので、恐らくこの二人の行者も、薬草を使って人々の病を直し、人びとの信頼を得たと思います。キハダの木の内皮の薬効についても知っており、内皮を煮出し煮詰めて薬にすることを地元の人に教えたものと思います。これが木曽特産の百草の始まりです。

この両行者の尽力よって御嶽山は誰もが登れる山に解放されたのです。さらに覚明行者と普寛行者の後を継いだ広山行者、順明行者、一心行者、一山行者、儀覚行者、義具霊神などの布教活動により御嶽信仰は全国普及し、各地に御嶽講社が結成され、毎年、先達に率いられた白装束の信者が御嶽山登拝に訪れるようになりました。
明治四十四年(1911年)に発行された薬剤誌に御嶽山の薬草と売薬の記事があります。

御嶽山の薬草及売薬販売高
海抜一萬百廿八尺参詣者三萬餘人を以て有名なる御嶽山産物として、白衣金剛杖の信者間に多大の需用ある駒草、山人参外十數品の薬草は毎年二千圓、売薬たる百草は黄柏エキスの單味或は他の二三味を配伍したるものにして毎年千圓、其他奇應丸は毎年一萬圓の賣上高ありという。
(明44・10・10、薬剤誌一五九号、長野県通信、箕浦辰三郎)

今ほど薬がなかった時代に百草は万能の腹薬と言われ、胃腸薬や下痢止めだけでなく、板状の百草を温めて溶かして湿布薬として使ったり、湯で溶かしてうがい薬にしたり、さまして目薬として使うというように珍重されてきました。これは百草・百草丸の主成分である「オウバク」の経験的に実証されてきた効能・効果であり、江戸時代から愛用され続けている要因と言えます。

日野製薬の前身の日野屋は、江戸時代に中山道木曽十一宿の一つの藪原宿で旅籠をしていました。日野屋には水行ができる滝があり、普寛行者の最後の弟子の一心行者や順明行者をはじめとする御嶽信仰の信者の定宿でした。日野屋には両行者直筆の掛け軸があります。
上述したような百草の効能・効果が次第に知れ渡り、信者だけでなく一般の旅人も百草を常備薬ないしはお土産として購入したので、日野屋でも販売していました。

百草丸は意外と新しく、昭和三十年代に開発され、製造販売するようになりました。

昭和五十年代から平成にかけて御嶽信仰が盛んであったころは、全国に信者が百万人にいたと言われ、七,八月の夏の登拝時期には登山口から頂上まで行列ができ、頂上奥社で待ち行列ができたと言われるほど賑わいました。同じころの冬のスキーシーズンには、王滝口にあるスキー場に数十万を超えるスキー客が来るようになり、ピークの平成四年には約70万人のスキー客が来ました。当時、御嶽山麓の直営店に勤務していた社員から、国道十九号まで車が渋滞していたので、逆方向の岐阜県まで遠回りして帰ったという話を聞いています。このように御嶽信仰の信者、観光客、登山客、スキー客の皆様に愛用され、口コミで伝わったことにより百草・百草丸が普及して参りました。

4月1日から発売しました「百草丸プラス」は、ストレスなどで胃が荒れた人には効果があります。多くの方々の健康に寄与することを願っています。
 

2014年10月

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山々に囲まれた木曽に暮らして、毎日目にしている森林ですが、木曽ならではの特徴があるようです。

最近、信州大学名誉教授 菅原聡先生編集の「森林 日本文化としての」(地人書館出版)の中の菅原聡先生が記述された「長年かけて創られた美林 木曽谷の木曽檜天然林」を読んで、歴史的な経緯を知ることが出来ました。

例えば、木曽の五木として,針葉樹のヒノキ、サワラ、ネズコ、コウヤマ、アスヒがあります。私は、木曽の針葉樹を代表する五つの木であるから、木曽五木と呼ぶようになったと思っていました。ところが、歴史的な由来があったのです。

江戸時代に尾張藩が木曽の森林を保護するために、停止木(ちょうしぼく)という保護政策を取りました。宝永五年(1708)にヒノキ、サワラ、アスヒ、コウヤマの四木が停止木になり、伐採が禁止されました。享保十三年(1728)にネズコが停止木に加えられ、いわゆる「木曽五木」が禁止木となりました。これが木曽五木の由来です。

このような保護政策を取らなければならなくなった背景として、安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて、木曽の木材が大坂、江戸、名古屋、駿府などで建材として、大量に伐木され、木曽谷の山林の荒廃が進み、尽山となったことにあります。「木一本首一つ」という厳しい規制をする一方で、停止木以外は、人々の暮らしのために伐採し、薪・炭などの燃料、おひつや弁当箱などの曲げ物、漆器などの日用品、建築用材として利用してきました。この伐採により、木の成長に必要な明るさが確保されたので、停止木が自生し、成木になってできたのが、樹齢二百年を超えるヒノキなどの天然林です。菅原先生は、「木曽檜天然林は木曽谷の自然条件と尾張藩の留山制度・停止木等の林政、および、木曽谷に住む人々の営みとの共同生産物、文化的創造物である。」とおっしゃっています。

伊勢神宮の式年遷宮の造営材は木曽檜が使われています。伊勢神宮の近くに東京都世田谷区と同じ位の広さの宮域林があり、樹齢百年未満のヒノキが生えています。間伐材が造営材として使われているようですが、胸高直径70センチメートル以上の造営材は樹齢二百年以上のヒノキでないといけないので、少なくとも今後百年は木曽檜が式年遷宮の造営材として使われることになります。

1969年に赤沢の木曽檜天然林が「自然休養林」に指定されました。その後、1982年に全国で初めての「森林浴」のイベントが行われてから「森林浴の赤沢自然休養林」として有名になり、多くの人が訪れるようになりました。木曽には赤沢自然休養林以外に、鳥居峠、水木沢天然林、油木美林、木曽御嶽自然休養林、阿寺渓谷、田立の滝など自然の景観を楽しみながら森林浴の散策を楽しめる場所がたくさんあります。

いつもは書き出しで木曽の近況をお知らせしていましたが、9月27日に御嶽山噴火があり、次第にその惨状が明らかになるにつれ、言葉を失いました。

今後復興には時間がかかり、風評被害を含め様々な影響があることが懸念されますが、一方で過去を見直し、未来に向かって改善をする良い機会が来たと感じています。
木曽の豊かな自然と共生しながら、未来に向かって力強く歩む所存です。
 

2014年5月

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 今年の冬は零下10度以下の日が多く、大雪が降って大変でした。住居は江戸時代に木曽十一宿の一つの奈良井宿にあり、当時の宿場の面影が残っているので、「重要伝統的建造物群保存地区」に認定されています。雪が降ると旧街道(中山道)に面した家の前の雪掻きをします。以前は掻いた雪を家の前にためていましたが、なかなか融けず、車や観光客の通行の邪魔になるので、最近は隣組の中で小型トラックを持っている人が車を提供し、搔いて溜まった雪を皆で協力して荷台に乗せて、裏の小川に捨てるようになりました。この冬の1メートル近く雪が積もった大雪の時も、日曜日の朝から隣組の協力体制で雪かきをして2時頃には、通りの雪が全くなくなりました。隣組の良さ、大切さを改めて感じました。
 連休に入ってから会社のある木祖村の桜が満開になり、5月に入ってかららしだいに木々が芽吹いて、目に鮮やかな緑に覆われてきました。
 弊社の本社や直営店が所在する長野県木曽郡は、人口が3万人を下回り、65歳以上の占める割合が37.2パーセントです。木曽地域には年をとっても元気な方がたくさんいますが、やはり高齢化が進み若年層が減少してくると、地域の活力の低下と後継者不足が懸念されます。
 この木曽地域の未来を明るくするために、「未来の子供たちが住みたくなる木曽」にするにはどうしたらよいかということを、木曽の有識者と信州大学の産学官連携本部の先生方と検討を重ねてきました。
 一方で、昨年ユネスコエコパークという制度があることを知りました。文部科学省の資料によると、「世界自然遺産が、顕著な普遍的価値を有する自然地域を保護・保全するのが目的であるのに対し、ユネスコエコパークは、生態系の保全と持続可能な利活用の調和を目的としており、保護・保全だけでなく自然と人間社会の共生に重点が置かれている。」と定義されています。ユネスコエコパークの対象範囲には、厳格に保護か長期的に保全する「核心地域」、核心地域を護るために取り囲んでいて、教育、研修、エコツーリズムに利用できる「緩衝地域」、住民が居住して地域社会や経済発展が図られる地域から成っています。ユネスコエコパークは1976年にユネスコが開始した制度で、2013年5月現在の登録総数は117カ国621地域で、日本のユネスコエコパークは1980年に登録された、「志賀高原」(長野県、群馬県)、「白山」(石川県、富山県、福井県、岐阜県)、「大台ケ原・大峰山」(奈良県、三重県)、「屋久島」(鹿児島県)、及び、2012年に登録された宮崎県の「綾」の5か所があります。さらに、昨年推薦を受け、今年登録される見込みの南アルプスと只見があります。日本では知名度が低いですが、2012年から新規登録が続いているので、次第に注目されるようになると思います。
 木曽は森林面積が93.3%を占める自然が豊かな地域ですが、国立公園・国定公園に指定されている場所はありません。この原因は、安土桃山時代には木曽の檜などの木材が乱獲され、禿山のようになったことと、江戸時代に木曽を治めていた尾張藩は森林を保護するとともに林業にも力を入れており、明治時代以降も御料林、国有林として森林資源の利用が続いてきたことによると思います。このため、木曽の世界自然遺産登録を目指すことは無理と思っていましたが、ユネスコエコパークは自然と人間社会の共生に重点が置かれているので、木曽の実情に合う制度であると感じました。そこで、木曽のユネスコエコパーク登録を目指して2月から検討委員会を発足して検討を開始しました。
 登録申請のためには、対象区域を定める必要があります。昨年度から中部森林管理局は「木曽地方における温帯性針葉樹林の保護・復元に向けた取り組み」を開始しました。上松町、王滝村、大桑村にある国有林が対象になります。更に、「御岳県立自然公園」は木曽町・王滝村にある保護・保全区域です。これ以外に、木祖村の「水木沢天然林」、南木曽町の「蘭」も含めれば木曽郡全域を対象区域にすることができます。登録申請は対象区域の町村長の連名で日本ユネスコ国内委員会MAB計画分科会に申請することになるので、近々検討結果を町村長に報告し、行政・民間の推進体制を築き、是非登録を実現したいと思っています。

2013年10月

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 富士山が世界遺産委登録されたためか、今年は御嶽の登山客が多いようです。8月に御嶽山麓の弊社直営店にいたときに、お客様から「王滝口七合目の駐車場が自家用車で一杯になっている。こんなことは初めてだ」という話をよく聞きました。
 御嶽は標高3,067メートルの剣が峰と外輪山からなり、その雄大な山容から古くは王嶽(おうだけ)すなわち王の御嶽(みたけ)と尊称され、それがいつしか御嶽(おんたけ)と呼ばれるようになりました。岐阜、愛知、三重からも遠望することができる御嶽は、古くから人々の崇拝を受けるとともに、修験者の修行の場であり、七十五日間ないしは百日間の精進潔斎を経た道者(どうじゃ)だけが登拝できたようです。
 江戸時代に、五街道などの道路が整備され、旅行が容易になると、伊勢参りなど信仰の旅が盛んになり、御嶽も一般の人が登拝できるようにしてほしいという要望がでてくるようになりました。天明五年(1785)に、尾張の覚明行者が村人たちや尾張の信者と登拝し、水行の軽精進だけで登拝できるように開山し、登山道の改修もしました。江戸の普寛行者は寛政四年(1792)に新たに王滝口登山道を開削しました。この二人の行者の働きによって、御嶽は一般の人が登山できるようになりました。しだいに各地に講社が結成され、御嶽登拝に来る人が増えてきました。
 昭和の終わりごろの信者が百万人いると言われたころには、登山口から剣ヶ峰頂上まで登拝する信者で一杯になり、剣ヶ峰頂上の奥社にお参りするために、待ち行列ができたそうです。剣ヶ峰頂上は詰めれば二百人位の人が参拝できる広さがありますが、一杯になったということは、いかにたくさんの人が登拝したかがわかると思います。
 御嶽は三千メートル以上の高山にしては登りやすい山です。これは、二百年以上にわたる登山道改修の積み重ねの結果であると思います。森林限界までの登山道には、歩きやすいように枕木を置いて段差をつけ、森林限界から上は石を使って段差を付けたり、枕木で段差を付けて歩きやすくしています。このように整備された登山道も、冬の間に積もった雪や雨水で傷む箇所があるので、平成十九年から夏山登山が始まる前の七月初旬に黒沢口と王滝口の登山道整備を百人以上のボランティアで実施しています。私は毎年黒沢口の登山道整備に参加しています。昨年から木曽町にある林業大学の一年生二十名と先生に参加いただくようになり、若い力でたまった土砂を取り除き、水路を作って雨水を流すようにしています。枕木の緩んだ楔を打ち込んだり、ゆるんだ石を取り除くか、動かないように補強したり、ロープを張り替えたりして頂上まで行きます。両登山口から約四十名の人が頂上まで行き、山小屋で一緒に食事をした後に、八十余段の石段を登って頂上奥社に参拝します。昨年から二礼二拍手一礼などの参拝の作法について、御嶽教の青年部の先生に説明していただくようにしました。柏手の音の響きを良くする方法なども教えるので、作法を知らない人にとっては、良い体験になったと思います。
 御嶽には歴史的に由緒ある史跡が数多く残っています。

  • 鎌倉・室町時代の領主木曽氏や江戸時代の尾張藩主とその家臣の山村代官の厚い崇拝を受けて寄進された建造物・絵馬・絵画など
  • 御嶽神社、御嶽講社によって建造された霊場
  • 水行の滝(自然の滝、御嶽講社が作った人造の滝)
  • 神秘的な霊域

 御嶽講社の霊場に「死後霊魂は御嶽に還り大神のお側にお仕えし、子孫のために行をする」という信者の願いにより建立された二万基以上の霊神碑があるのも、他の山岳信仰にはない特徴です。
 各史跡には石碑を設置し、「御嶽山三十八史跡巡り」の朱印帳で、各史跡の説明をしてあります。
歩きやすい登山道を登っていく途中で、史跡を見たり、高山植物の可憐な花や雷鳥の姿を見ることができます。晴れた日には山頂から乗鞍岳や木曽駒ケ岳などの北アルプス、中央アルプス、南アルプスの峰々のみならず、遠く富士山、浅間山や濃尾平野、伊勢湾までも望むことができます。
 このように魅力ある御嶽は、長野県の「山岳高原を活かした世界水準の滞在型観光地づくり」の三つの重点支援地区の一つに選定されました。

たくさんの人が魅力ある御嶽を是非訪れてほしいと願っています。 

2013年5月

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今年は桜の開花後に雪が降るというように寒暖の差が激しい日々が続いていますが、これから木曽の山々はしだいに木々が芽吹いて、目に鮮やかな緑に覆われるものと思います。

弊社の本社や直営店が所在する長野県木曽郡は、この十年間で、人口が3万5千292人から2万9千855人に減少し、65歳以上の占める割合が31.3パーセントから37パーセントに増えています。木曽地域には年をとっても元気な方がたくさんいますが、やはり高齢化が進み若年層が減少してくると、地域の活力の低下と後継者不足が懸念されます。

この木曽地域の未来を明るくするために、「未来の子供たちが住みたくなる木曽」にするにはどうしたらよいかということを、行政と民間で協力して、様々な視点から考察し、課題を設定し、実行していくことが大切と思います。

平成19年度から取り組んでいる「木曽丸ごと夢作り活動」の中で、「未来の子供たちに残したい木曽の地域遺産」の保全活動を行っています。

木曽は自然に恵まれている地域ですが、谷あいの各集落には自然と共生しながら、生み・育まれてきた貴重な文化遺産が残っています。私は、それを森林文化、水の文化、街道文化、信仰文化の四つのカテゴリーに分類できると考えています。「森林文化」とは、住まい、道具、食器、燃料など生活の中で使われた木の育林、伐採、運搬、製材、加工の各工程で発達した文化、「水の文化」とは、木曽川とその源流沿いに発達してきた文化、「街道文化」とは、江戸時代の五街道の一つの中山道沿いの木曽十一宿で発達した文化、「信仰文化」とは、御嶽山や木曽駒ケ岳のようにひときわ高い山に対する山岳信仰から発達してきた文化のことです。

昨年から信州大学の産学官連携本部と、信州大学の先生方に木曽の地域遺産に関する研究をしていただこうと話し合いを進めています。依頼する研究課題を設定するために、木曽の有識者と会議をして考察を深めてきました。その結果、新たにわかったことや反省することがあります。

私は、「昔の木曽地域は中山道沿いに11の宿場があり、旅人相手と農林業で細々と生計を立てて暮らしをしていた」とイメージしていましたが、これは現代の様子から類推したイメージであって、地域遺産の歴史的な価値を正しく認識できていないと反省しました。

たとえば、弊社のある木祖村の菅地区に江戸時代からの民蘇堂野中眼科があり、江戸時代の医療器具や文化財などがたくさんの残っています。この野中眼科に、江戸時代に四国の患者を診察した記録があります。当時は徒歩での旅行なので、四国から菅まで一週間以上かかったと思います。このような片田舎の医者の存在を四国の患者が知り、はるばる来たことを不思議に思っていました。

江戸時代に貝原益軒 は『木曽路之記』貞享二年(1685)の中で、

「木曽の本谷よりは水なお多し。おんたけ川という。おんたけとは木曽の御嶽(みたけ)なり」「其の谷の奧に材木おびただし。」、「杣人(そまびと) 二、三月に山に入りて十月に出る。およそ幾千百人ということ知らず」

と記述されています。

天保九年(1838)の「木曽巡行記」によると、木曽地域の総人口は3万4千106人でしたが、尾張藩は林業で藩の収入を得るために林業専属の役人を置き、木曽の村人だけでは足りずに、紀伊半島や四国から杣人を呼んできて、林業に従事させていたようです。人口の一割を超える杣人が他国から来て働いていたことから、木曽地域は一大林業の産地であり、林業と宿場で経済的にも豊かであったと思います。この新たに得た知識から、長らく不思議に思っていた、野中眼科に四国から患者が来た理由もわかりました。恐らく四国から来た杣人かその縁者であったと思います。このように現代の目からは不思議に思うことも、歴史的事実がわかれば解明できることが多々あると思います。

木曽については、過去にたくさんの方が研究されています。その研究成果を踏まえつつ、全体を包括する構想を立てることが最も重要と思っています。

構想をまとめ、信州大学の協力を得られるように研究課題を定め、「未来の子供たち残したい木曽」の保全につなげていきたいと存じています。

2012年10月

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今年は9月に入っても暑い日が続いていましたが、お彼岸の頃から、ようやく朝夕に気温が下がり、掛布団をかけて寝ないと寒く感じるようになりました。この気候の影響で例年より紅葉の時期が遅れるかもしれませんが、見事な紅葉を見ることができることを願っています。

東日本大震災から一年経った3月に、木曽らしい活動を通して東日本大震災の被災地の子供たちの心を癒し、元気づけることができないだろうかと考えていて、ふと数年前の中澤準一先生の楽器作りの講演を思い出しました。中澤先生は、赴任した各小学校の一年生に、中澤先生が考案された楽器バンドーラの設計図を描くことから、工具を使って木曽産の檜、翌桧、栂などの木材を加工して楽器を制作し、音楽の時間に、自作の楽器で演奏する楽しさを教えてきました。その後、楽器バンドーラの制作と演奏を体験した生徒たちに、バイオリンの制作と演奏を指導しました。中澤先生はストラディバリのバイオリン制作の秘法を解き明かすことをライフワークとしており、60歳になる直前に全ての秘法を解明されたそうです。現在、退職されて、木曽郡上松町に住んでおられます。

中澤先生に相談したところ、バイオリン作りは三百時間かかるので、三十時間でできる楽器バンドーラの制作がよいという助言と子供たちに楽器作りの指導をするという約束を頂き、8月20日から24日までの4泊5日、木祖村のやぶはら高原こだまの森で「楽器バンドーラの制作と演奏の実習会」を行う計画を立てました。やぶはら高原こだまの森には、東京大学名誉教授の畑村洋太郎先生が主宰されている危険学プロジェクトで開発された、世界に二つとない新型遊動円木、リング型ブランコ、回転ホッピング・シーソーが設置されています。昨年10月に、畑村先生から木祖村に寄贈されました。畑村先生は東京電力福島第一原発事故調査・検証委員長として、被災地の様子をよくご存じなので、協力をお願いいたしました。

実習会の開催期間に小学校が夏休みである福島県の被災地に呼びかけることにしましたが、なかなかうまくいきませんでした。重大な被害を受けた被災地は、住民が離散しているなどの実情を後から知り、無理な呼びかけであったと反省しました。最終的に福島県のいわきユネスコ協会の協力を得て、8名の小中学生と付添いの3名の父兄が参加する実習会を行うことになりました。

木祖村役場、会場のこだまの森、木祖村の企業の協力も得て、受け入れ態勢を整え、8月20日を迎えました。役場の交渉により、こだまの森に研修に来ていた名古屋芸術大学の学生5名が実習会の手伝いをすることになりました。2時頃に福島県から参加者が乗ったバスが到着しました。6時間半かかったそうです。開会式の後に実習会が始まりました。

初日は、参加者の好みの形(例えば、犬の顔、トラック、花びら)を楽器の胴体部分にして、画用紙に描き、さらに、弦と糸巻の取り付け部分を描いた後で、はさみで切抜き、設計図を作りました。その後に、板をのこぎりで切って、棹と糸巻部分を作り、ボンドで貼り付けたところで初日の作業は終わりです。作業が終わった子供たちは、世界に二つとない新型遊具に乗って楽しい時間を過ごしました。

二日目から本格的に加工作業が始まり、木材をのこぎりで切ったり、やすりで研磨したり、ドリルで穴をあけたり、のみで削ったりしました。様子を見に行ったら、子供たちは、脇目も振らずに作業をしていました。夜の9時頃まで作業をしたようです。中澤先生の熱心なご指導には頭が下がります。

加工が進み、胴体部分の組み立てと塗装が行われ、棹と糸巻取り付け部分の加工がされました

四日目の7時半から上松町の小森林(こもり)の会の方たちによる自作のバンドーラとバイオリンの模範演奏がありました。メンバーの中には85歳の女性二人がいましたが、79歳の時から3年かけて制作したバイオリンで見事に演奏をされました。

最終日の朝早くから最後の仕上げ加工をし、弦を張った後に、曲を演奏できるように教則本に従って練習を繰り返していたようです。12時から修了式を始めました。来賓の挨拶などのあとに、中澤先生の指揮のもとに実習会参加者による演奏がありました。日の丸、チューリップ、キラキラボシです。

子供たちがゼロから楽器を作り上げ、演奏できるようになり、本当にうれしそうで満足している様子を見て、実習会を実施して良かったと思っています。今後も継続して、毎年開催する予定でいます。

2012年5月

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今年は不順な気候が続き、5月に入っても例年より寒い日があるためか、5月中旬になっても、山々の木々は芽吹いていないように見えます。さすがに里は、「目に青葉、山ホトトギス、初鰹」の言葉どおりに、目に鮮やかな新緑でおおわれているので、すがすがしい気分になります。

さて、不思議な縁で一里塚のことを詳しく知ることが出来るようになりました。一昨年に新宿から松本に向かう列車でたまたま同席された諏訪の方が、一里塚のことを研究している赤井静夫氏の案内で一里塚跡を巡りながら私の住まいのある奈良井に行ったことがあると話されました。この方に赤井氏を紹介いただき、お会いして一里塚のことを教えていただきました。赤井氏は土木関係の専門家で、全国の一里塚跡を訪れて、写真を撮り、自分で測量して図面をかき、土木の貴重な文化遺産としての一里塚に関する研究論文をまとめておられました。この論文をいただき、一里塚のことを学習することができました。

江戸時代に主要な街道の一里(3.93km)毎の道の両側に一里塚を建設しました。一里毎の距離の目安であり里程と呼ばれました。一里塚は直径五間(約9メートル)、高さ十五尺(約4.5メートル)の饅頭型の土盛りをし、夫々の塚の上に榎(えのき)・松・杉等の木を植えたものです。()

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一里塚は街道文化の貴重な土木遺産ですが、道路の拡張工事や鉄道建設などの折に破壊されたり、災害で崩れたこともあり、現存するものは少なくなっています。

江戸時代に五街道のひとつであった中山道の、馬籠宿の「是より北木曽路」の石碑から、桜沢の「是より南木曽路」の石碑までの木曽路の間に十一の宿場と二十二箇所の一里塚がありました。

昨年、木曽地域の文化遺産の保全に関心のある方々に集まっていただき、協議をした結果、一理塚の復元は所有者の了解が必要であることと莫大な費用が掛かかり無理なので、一里塚の機能の一つである目印機能の復元のために、一里塚跡の近辺にある自然石を使った石碑を設置することにしました。昨年度は、何も標識がなく所在地がわからなくなっている五箇所の一里塚跡(鳥居峠、吉田、下在郷、金知屋、大妻籠)に石碑を設置することにしました。

子供たちが文化遺産に対する関心を持つように、石碑に刻む銘文「地名、一里塚跡」を、各地域の小中学生に書いてもらいました。夏休みに書道展を行い、審査員の先生に各地区の最優秀、2位、3位の作品を選んでいただき、表彰しました。その後、日を改めて審査員の先生に書道指導をしていただき磨きがかけられた最優秀作品を石碑に刻み、裏面に制作者(最優秀作品の子供)の名前と協力者(準作品の子供)の名前を裏面に刻みました。何百年にわたって銘文と名前が残るので、子供たちには良い記念となったと思います。

 

昨年10月26日に設置しましたが、寒くなったので除幕式を行っていなかった鳥居峠一里塚跡で4月28日に除幕式を行いました。鳥居峠は中山道の難所のひとつで、峠越えの旅人が宿泊したので奈良井千軒と言われるほど奈良井宿は栄えたようです。その奈良井から鳥居峠遊歩道を登って一里塚跡に向かいました。遊歩道として整備されているので、難所であったとは思えないほど歩きやすい道です。最初は上り坂が続くので足が重く感じられましたが、しばらく芽吹き始めた木々の中を歩いていくと、足が軽くなってきました。時折鶯(うぐいす)の鳴き声が聞こえました。

少し早足で歩いたためか、予定より早く一里塚跡に着いたので、誰も来ていませんでした。一里塚があったといわれるあたりには、土が饅頭型に盛られた跡もないので、石碑がない限りは一里塚があったとは知る由もない場所です。一里塚跡から二百メートルほど上った所に鳥居峠があります。しばらくして、制作者の巾崎さんとお母さん、中学校の校長先生、楢川支所長、地元の協力者が集まったので、丁度通りかかった三名の観光客にも参加していただき、除幕式を行いました。制服姿の巾崎さんは大変うれしそうでした。

このように子供たちも参加する楽しい事業活動とすることができ、大変良かったと思っています。

今年度も五箇所の一里塚跡(若神子、押込、橋戸、宮ノ越、出尻)に石碑を設置する予定です。

 

 

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